太田肇 Critical Essays ”個の視点”

同志社大学政策学部教授 (個人尊重の組織論、モチベーション論)  日常生活のなかで疑問に感じたとき即座に書いたものがほとんどです。不完全な内容や思い違いがあるかもしれませんが、お許しください。

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同志社東京講座 実践的「組織改造」講座-講義と議論で問題解決する-(全5回) 申込み受付中

講座概要
いま多くの企業や団体、機関が「人」の問題で悩んでいます。人の問題を解決するには、組織そのものを変えなければなりません。しかも小手先の工夫やノウハウではなく、組織そのものを「改造」することが必要です。組織をどのように改造すれば組織と従業員双方にとってプラスになるのか。講義と参加者同士の議論 をとおして、参加者一人ひとりが新しい組織・マネジメントの枠組みと改造の方法を見つけていきます。中小企業やNPOなどで経営に携わる人、大企業や中堅企業の管理職、コンサルタントや社会保険労務士といった人たちを想定した参加型の講座です。

毎回、前半の45分は講義、後半は30分間参加者同士で議論し、残りの15分で議論内容を発表していただき、講師からコメント、質疑応答を行います。

大学院のゼミと同じようなスタイルで行います。
申し込み方法など詳細は、下記のサイトをご覧ください。
http://www.doshisha.ac.jp/admissions_continuing/open_lecture/tokyo/soshiki.html

(2016/8/22)







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テーマ:お知らせ - ジャンル:ニュース

  1. 2016/08/22(月) 16:01:00|
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立場や背景を洞察すれば、「やる気」アップの処方箋は書ける

 仕事はもちろん、スポーツでも勉強でもモチベーションが頻繁に論じられるようになった。それだけモチベーションのウエイトが高まったといえるし、その理解が進んだことも事実だ。巷にはモチベーション・アップを説いた書物があふれている。

 しかし私が物足りないのは、研究書にしてもビジネス書にしても、モチベーションの理論やノウハウは説いているが、その人(相手)の置かれている立場や背負っているもの、そこから生じるホンネに対する洞察が不足していることである。実際に生じるモチベーションは、それに大きく左右される。

 たとえば営業マンがお客さんと交渉するとき、「この条件をのんだら上司はどう言うだろうか」「部内で周りをどう説得しようか」などと考えている。あるいは、早く交渉を終えなければデートの約束に間に合わない、とイライラしながら交渉しているかもしれない。
 また遅くまで残業する人の中には、仕事で成果をあげていないので、上司に評価されるためせめてがんばっているところを見せようと意識している人もいる。楽しい職場をつくろうとしても、「自分は成功するためにこの会社に入ったのだから、楽しく働きたいとは思わない」という人もいる。
 若者が「指示待ち」になったのも、昇進を望まない社員が増えたのも、それなりに合理的な理由がある。
 さらにいうなら、仕事が楽しい、面白いと感じるか、感じないかも潜在意識の中に存在する理由に左右されるのである。

 ところがわが国の職場にしても、社会にしてもホンネを表に出しにくい。だから、たいていの人がほんとうの理由を表に出さない。ほんとうの理由を隠しながら目的を達成するためにとんでもない行動に出る場合もある。
 だからこそ、その人の置かれている立場や背景から、洞察することが必要なのである。

 人によって価値観はさまざまなので、一人ひとりの気持ちを考えていたらきりがない、といわれるかもしれない。
 しかし、背景を冷静に分析すれば、その多くは推測できる。そしてオーダーメイドの対策が打てる。これまで、その努力を怠ってきただけなのだ。

 近著 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』 (日本実業出版社、2016年7月刊 Amazon、楽天などで予約受付中)では、職場や生活の背景、個人の本音に焦点を当てながらモチベーション・アップの方法を説いています。社員や部下の動機づけはもちろん、自分自身の「やる気」を高めるのにも役立つはずです。

(2016/6/29)
  1. 2016/06/29(水) 08:57:41|
  2. モチベーション
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「一円を笑う者は一円に泣く」か?

 コンビニで買い物をしたら財布に1円玉がなかったので100円玉から99円の釣りをもらう羽目になり、財布が膨らんでしまった。いつも細かいお金から先に使う習慣が裏目に出たのだ。かつて、スーパーのレジに箱を置いて、買い物をした客が一円玉を箱に寄付し、必要な人が使えるようにしたことをふと思い出した。このときはPTA関係者が「教育上よくない」と反対し、すぐ廃止になったと記憶している。
 たしかに1円でも大切にする精神は尊いし、日本人の美徳でもある。お金ではないが、農家で育った私は御飯を一粒も残さないよう育てられた。それはちょっとした自慢だが、食べ物を残さず食べることで食べ過ぎたり、体調を崩したりすることもある。
 1円を大切にする教育も、それにこだわりすぎると融通が利かなくなり、スーパーの例のように助け合いの精神が後回しにされるかもしれない。もっと大きな問題は、事の軽重を考える習慣が身につかないことである。いくら1円が尊いといっても、1円では何も買えないことは厳然たる事実である。それを教えることも教育ではなかろうか。
 1円を大切にする教育を受けてた日本人は、会社でも細部にこだわったり完璧主義になったりする。どんな仕事も手抜きせず、完璧にやろうとする精神は尊いかもしれない。一方、欧米にしてもアジアの国々にしても、会社では仕事を重要度に応じて選別したり優先順位をつけたりする。可能な範囲で合理的に働こうとするのだ。
 休暇も取らず長時間残業しても生産性が低い日本企業と、短時間働いて生活をエンジョイしながら生産性もあげている海外企業とを見ると、1円を大切にすることの両面性を教えるのも大切ではないかと考えさせられる。

(2016/1/25)
  1. 2016/01/25(月) 17:41:58|
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近刊 『個人を幸福にしない日本の組織』 (新潮新書) のご案内

太田肇  『個人を幸福にしない日本の組織』
" The Japanese Organization Which Does Not Makes Individuals Happy ,"

 安倍内閣が掲げる「一億総活躍社会」や、女性の管理職登用、地方創生、大学の国際競争力向上、理不尽な格差の是正。実現のカギは、組織の中に隠れています。
 私たちが暗黙の前提としてきた「組織の常識」を疑い、その病態を暴くとともに大胆な改革を提言。

 第一章 組織はバラバラなくらいがよい
 第二章 年功制が脳を「老化」させる
 第三章 管理強化が不祥事を増やす
 第四章 厳選された人材は伸びない
 第五章 大学入試に抽選を取り入れよ
 第六章 地方分権でトクをするのは誰か?
 第七章 PTAや町内会は自由参加でよい
 むすび 組織と社会の構造改革を!

    新潮新書 2016年2月17日発売740円(税別)
  1. 2016/01/14(木) 22:28:58|
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おわび

みなさまにお詫び。






ブログはしばらく更新していません。

かわりにツイッターやフェイスブックを使っていますので、そちらをご覧ください。






よろしくお願いいたします。








  1. 2016/01/04(月) 21:10:47|
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過剰適応に苦しむ日本企業

 40度に迫るほどの猛暑が続いたこの夏、うちの飼い猫(オス、2歳)の元気がない。冷房の効いた部屋に居座るか、ヒンヤリとした板の間に体をくっつけて動かない。ネコの祖先は中東産で暑さに強いと聞いていただけに、ちょっと意外な気がした。詳しい人に聞いてみると、うちのネコのような長毛種(といっても雑種だが)は寒い土地で飼うように改良されてきたため、暑さには弱いそうだ。とりわけ温暖化による近年の猛暑は、「想定外」だったのだろう。
 動物のなかでも家畜は人間の都合によって品種改良させられている。飼料の無駄を省くため、羽やトサカのないニワトリが生産されているの見たときは衝撃を受けた。
 けれども、それは動物の世界だけではない。人間だって、わが子にオリンピックで金メダルを獲らせたければ、それなりの血筋の人と結婚して子供ができたら幼児期からスポーツの英才教育を受けさせるのが合理的だし、有名大学に入れたければ入試に的を絞って受験秀才を育てるのが近道である。実際、世間では家畜の世界に近いようなことも行われている。
 このように焦点を絞って、そこに資源を投入すると具体的な目的達成には合理的だ。そして競争が激しくなればなるほど、そのような戦略をとらないと勝ち抜けなくなる。ところが、うちのネコのように環境が変わったらお手上げだ(うちのネコも土間で仰向けになり両手を突き出した「お手上げ」ポーズで寝ている 笑)。いわゆる「高学歴プア」も、ある意味では環境変化の犠牲者なのだろう。
 いまこそ私たちは、「適応が適応を妨げる」という言葉をもう一度よく噛みしめるべきである。
 とくにそれを強く感じるのは、日本企業のマネジメントについてである。周知のように日本企業は長く繁栄した工業社会のリーダーであり、模範生だった。品質管理やコスト削減、人材育成などあらゆる面で工業社会における競争力を高めるように特化し、それが大成功を収めたのだ。
 ところがIT化、ソフト化、グローバル化の波が押し寄せ、ポスト工業社会へ移行しつつあるいま、日本企業は成功体験の重さに苦しんでいる。工業社会仕様のモデルが人々の価値観や考え方、文化や道徳にまで深く、広く浸透しているため、変えようと思っても変えられない。変革の方法もまた典型的な工業社会仕様なのだ。その結果、成功体験の縛りがない途上国にもなかなか太刀打ちできないのが現状である。
 成功体験のなかから何を残し、何を捨てるか。どれだけ思いきって新しい絵を描くか。組織と人事の面については、拙著 『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社、本日刊)で事例やエピソードを交えながら述べた。第2弾、第3弾も用意している。

(2015/9/18)
  1. 2015/09/18(金) 10:18:31|
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怠惰な子ども時代を?

 人間は比較する生き物だな、と感じることが多々ある。他人と比較して満足したり嫉んだりするだけではない。過去の自分とも比較するのだ。
 マラソンブームが続くなか、40代、50代になっても各地のマラソン大会をはしごしている人が少なくない。なかには若者顔負けの好記録を出している人もいる。意外なのは、彼らの多くが学生時代には陸上競技はおろか、運動部にも入った経験がないことである。聞いてみると、自分でもこれだけ走れたというのがうれしく、自己記録をつぎつぎに更新するのが楽しいらしい。
 逆に学生時代にスポーツに打ち込んだ人のなかには、中年太りで運動などまったくしないという人が目立つ。
 スポーツだけではない。大人になってやたらモチベーションの高い人が、昔は何事にも怠惰だったという話をよく聞く。
 子どものころに受けたスパルタ式の練習や勉強が運動嫌い、勉強嫌い、仕事嫌いにしてしまったことは事実だろう。しかし、それだけではないような気がする。おそらく人間は過去の自分と競争していて、過去の自分に勝ったときに達成感や成長の実感を味わうのである。
 そう考えたら、子ども時代にトラウマを植えつけないだけでなく、記録の面でも精神的エネルギーについても「余力」「伸びしろ」をあえて残しておくことが必要かもしれない。少年・少女時代に何事にも打ち込めず、充実した生活を送れなかった人は、それをマイナスに考えなくてもよいのである。

テーマ:今日のブログ - ジャンル:ブログ

  1. 2015/06/30(火) 09:02:35|
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能力、努力が「見えない」時代に

 プロ野球のオープン戦が始まった。毎年この時期には、大活躍して今年こそブレークしそうな選手がスポーツ紙の一面を飾る。ところが公式戦が始まると、サッパリ調子が上がらない。逆にオープン戦ではこれで大丈夫かと心配されていたベテラン勢が、公式戦になるとしっかり結果を残す。
 オープン戦と公式戦は本気度が違うと言えばそれまでだが、ほかにも理由がある。能力の質が違うのだ。駆け引きの少ないオープン戦で活躍するのは、パワーや走力といった比較的単純な身体能力の優れた選手である。それに対し、公式戦で活躍するのは読み、適応力、気迫、メンタルなタフさといった能力や資質に秀でた選手である。

 これはスポーツに限ったことではない。いや、スポーツ以外の世界ではその差がいっそう顕著になる。そして見過ごせない問題に発展する。
 企業では、価値の高いアイデアを出す人は正直なところごく一部に限られているといわれる。役所の窓口では、大半の職員が住民との間でトラブルに巻き込まれるなか、なぜかまったくトラブルを起こさず仕事をスムーズにこなす人がいるそうだ。
 
 企業や役所ではもちろん、教育や科学、医療などの分野でも、このように実践で力を発揮できる人を評価し、選別、育成しようと真剣に取り組まれている。しかし現状を見ると必ずしもそれが成功しているとはいえないようだ。
 それは、いちばん大事なポイントを見逃しているからである。大事な能力が「見えない」ということだ。しかも、「大事な能力は見えない」という現象がいま、決定的な事実になろうとしている。
 その原因は、やはりIT化である。今ごろなんと陳腐な話を・・・・・と思われるかもしれないが、ITは文字どおり日進月歩で進化している。それどころか、人間の能力への代替という面から見ると、むしろ加速度的に進行しているといえよう。人工知能の発達によってコンピュータが難関大学にも合格するし、小説も書くという時代である。
 ただコンピュータにも限界がある。アウトプットを生む仕組みが解明できなければIT化、デジタル化できないということだ。逆にいえば、インプットとアウトプットの結びつきがわかればすぐさまITに取って代わられるわけである。

 要するに、インプットとアウトプットの結びつきがブラックボックスのなかで行われる人間特有の能力こそ人間に求められ続ける。したがって、私たちは重要な能力こそ見えないものだということを理解しておかなければならない。
 そうすると、現在行われている入学試験や採用試験、評価制度、人事管理などはことごとく通用しなくなる。それどころか、逆に有能な人材を排除したり誤った方向へ導いたりするおそれがある。大事な能力や努力は「見える」という旧来の能力観に立脚しているからである。

 大事な能力、努力が見えない時代を迎え、社会のシステムをどう変えていくべきか。これからも考え、発言し続けていきたい。

(2015/3/2)
  1. 2015/03/02(月) 11:01:39|
  2. 日本の将来
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近刊 『がんばると迷惑な人』 について

太田肇 『がんばると迷惑な人』
  新潮新書、2014年12月刊  (amazonで予約受付中)

※今回は、早くから問い合わせがあるため、発売前から内容を紹介します。

■ 急落するわが国のGDPや国際競争力、非効率的な企業経営。誤った「常識」に気づき、"やる気"と努力を引き出す仕組みを変えなければ日本の国際的な地位はますます低下し、アベノミクスも女性の登用も腰折れするのは目に見えています。
本書では、身近な「がんばると迷惑な人」から視野を広げ、次のような問題の本質に思いきって切り込みます。
●"やる気"をめぐる根本的な誤解とは?
●なぜ、"がんばり"が通用しなくなったのか?
●"がんばり病"はどれほど怖いか?
●どうすれば努力の<質>を高められるか?
●日本人のチームワークに欠けている2つの要素とは?

日本人の"やる気"を根本から問い直す本です。

(2014/11/17)
  1. 2014/11/17(月) 09:45:39|
  2. 新刊紹介
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ほめる効果の研究プロジェクトについて(募集中)

対象:学習塾、サービス業、小売業、医療、公務、その他各業種。

条件 ① 概ね100名以上(統計的に必要なため)。 ② 費用は実費のみのものから、大学との共同研究まで(ご相談)。

メリット
① 組織ぐるみでほめる取り組みが実践でき、その効果が確認できる。
② 効果をマネジメントに利用できる。
ご関心をお持ちの方は、お気軽に下記へご連絡ください。
太田肇
  研究室 電話 075-251-3505   hajohta@mail.doshisha.ac.jp
  http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/
  1. 2014/10/08(水) 10:18:45|
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管理職試験、「受験率10%」の衝撃

 市役所や県庁など多くの自治体では管理職登用試験を取り入れているが、その受験率が驚くほど低い。有資格者のうち受験する人は係長試験で10%、課長試験でも20%程度だという。

 組織を動かす決定権を握っているのは管理職であり、やや大げさに言えば住民の生活や自治体の命運は彼らの意欲と能力にかかっている。したがって、職員のなかでもとくに優秀な人が管理職に就いてもらわなければ困る。ところが実際には、能力の有無はともかく「なりたい」という1割か2割の人のなかからしか管理職が選べないわけだから、考えてみればとても深刻な事態だといえよう。

 管理職になりたくない人が増えたのは、とくに近年の傾向である。昔は「管理職になりたくない」というと好奇の目で見られたものだが、最近はむしろなりたいという人のほうが珍しがられるくらいだ。背景にあるのは、管理職の魅力の低下、すなわち試験を突破して管理職になっても「割に合わない」という損得勘定である。

 管理職手当やさまざまな「役得」の廃止などもその一因だが、聞き取りをしてみると世間のパッシングや責任追及が厳しくなったことが大きな原因であることがわかる。
 そして、これは地方公務員にかぎったことではない。いわゆるキャリア官僚の人気が低下しているし、企業でも出世志向が薄れているといわれる。役所でも会社でも事件や事故、不祥事が起きればマスコミは「弱者の味方」を印象づけるため、このときとばかりにトップを糾弾するし、市民団体も「国民感情」「市民目線」をタテに追及をやめない。うっかりしていたら検察審査会によって強制的に起訴されたり、株主代表訴訟で身ぐるみはがされたりするかもしれない。
 それでもアメリカのようにトップが桁違いの報酬を得ていたら、「地位高ければ責任重し」と割り切れるだろう。ところが日本では、社会的な地位・尊敬を含め、有形無形の報酬は減少する一方である。

 権力の暴走にブレーキを掛け、トップの不正を追及することが大事なのはいうまでもない。ただ、「国民感情」や「市民目線」のなかには単なる妬みや憂さ晴らしのように非合理なものが紛れ込んでいないという保証はないし、めぐりめぐって長期的にどんな結果を招くかまでは考えられていないケースも多い。
 どんな組織や社会にも優れたリーダーは必要であり、優れたリーダーを輩出するには、大多数の人にとってリーダーの地位が魅力的でなければならない。そうでないと、やがてツケは庶民に回ってくる。もはや、強者をたたけばよいという時代ではないことを肝に銘じておきたい。

(2014/7/31)
  1. 2014/07/31(木) 21:12:24|
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従順の罪

 先日、インターネットの相談コーナーに、つぎのような悩みが載っていた。

 相談者は一人のサラリーマン。突然、会社に父が危篤だとの電話が掛かってきた。すぐ帰りたいと上司に伝えると、「君がいないと会議に支障がでる」と上司に反対されたという。
 
 それに対する回答やコメントは、ほとんどが理解のない上司を責める内容のものだった。しかし私は、むしろ相談者のほうに問題があるのではないかと感じた。
 普通に考えたら、親の死に目に会えるかどうかは本人にとって一大事だ。帰ろうと思えば、上司が力尽くででも阻止しないかぎり、一目散に帰ればいい。それが後で問題になれば、そのときに解決すればよい話だ。たとえ処分されたって、後で後悔することはなかろう。
 一方、上司は冷血で非人間的なな人のように見られているが、彼としては自分の立場から反対したまでのことである。にもかかわらず、それを絶対的命令であるかのように受け止められ、あの上司のおかけで親の死に目に会えなかったと一生恨まれでもしたらたまらない。

 この相談者がそうだとは言わないが、上司の意向を絶対視する人は、たとえ社会的に許されないことでも、平気で行ってしまう危険性がある。「アイヒマン実験」でも明らかになったように、人間は権威のもとでは善悪を判断する力を失ってしまうものだからである。大企業や役所で繰り返される事件、不祥事、それに学校や職場のいじめも、そうした関係性のなかで発生したケースが多い。

 無批判な従順さは必ずしも美徳でないばかりか、とても危険で無責任なことだと自覚すべきである。この相談事例で問題なのは理解のない上司よりも相談者自身、あるいは彼の判断力と行動力を麻痺させた職場や社会の風土であるといえよう。

(2014/7/29)
  1. 2014/07/29(火) 14:28:43|
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やる気を出させるには

 やる気を出させるにはどうすればいいのか?
 シンプルですが、とても難しいテーマです。永遠のテーマだといってしまえばそれまでですが、そうは思いたくありません。

 私は科学研究費補助金や企業からの委託研究費などを得ながら、幼稚園、学校、学習塾、企業、役所、病院などで実証研究を続けています。

 これまでにわかったことも、きわめてシンプルです。
 やる気を引き出すのに大切なのは、「やればできる」と本気で思わせることと、「やったら報われる」とわからせることです。
 もちろんそれにはいろいろな仕掛けや仕組みが必要で、それについては、拙著『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)や『承認とモチベーション』(同文舘)などで詳しく述べています。

 ただ、社会や組織がなぜ、その自明な原理を受け入れ、その方向へ変わろうとしないのか? 最近はそのことにとても興味を抱き、考え続けています。みなさんも考えてみてください。

(2014/5/10)
  1. 2014/05/10(土) 10:22:00|
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国立大入試は抽選で!

 今日から大学入試センターの試験が行われている。折しも入試改革の議論がわきあがった最中での試験である。
 教育再生会議では、達成度テストの導入と人物重視を提言し、それに対して関係者からはさまざまな意見が寄せられている。

 しかし私はそこでの議論に対して隔靴掻痒の感を覚える。本質を正しく突いているとは思えないからだ。たとえていうと老朽化した家を補修、補修で間に合わせているように見える。いま必要なのは補修ではなく、改築だろう。それほど根本的なところに問題があると思う。
 以下、私見を述べてみたい。

 最初に確認しておきたいことが二つある。
 一つは、そもそも入試の目的は何かという点である。この点については、大学教育を受け、能力向上に結びつけられるだけの学力・資質があるかどうかを判定するのが目的だということに大きな異論はなかろう。
 もう一つは、有為な人材を選別するという機能的な側面と、大学教育を受ける権利が公平に与えられるという個人の権利的な側面の両方に配慮しなければならないという点である。

 後者について敷衍すると、企業や役所の採用試験なら、機能的な側面が圧倒的に重要になる。極論するなら、より優秀で貢献できそうな人間を採ることだけを考えて選べばよいわけである。一方、大学入試の場合そうはいかない。しかも機能的な視点からも、後述するように選別の合理性、妥当性が大きく崩れている。

 これら二点を前提にして再生会議の提言を見ると何が言えるか?
 まず、センター試験に代わる「達成度テスト」を導入するというのは、第一の前提に適っていて評価できる。問題は「人物重視」の方である。人物重視にしても、あるいは創造性などの能力重視にしても、それによって選別されるとなると、選別されるための猛勉強や受験対策が加熱することは目に見えている。そうなると、せっかくの資格試験的性格を持つ達成度テストが意味をなさなくなる。
 つまり、「大学教育を受けるための能力判定」ではなく、受験突破能力で競争させ、その上位者から選ぶことになってしまう。それが本来の目指す方向でないことは明らかだ。
 また、人物といった抽象的・主観的な要素で選別するのは言うに及ばず、創造性などの能力で選んでも公平性などの権利的側面がかなり脅かされる。

 つぎに、機能的な側面から選別の合理性・妥当性について考えてみよう。
 周知のとおり、ICT(情報通信技術)は加速度的に進んでおり、人間の能力、果たしてきた役割を急速に浸食しつつある。とりわけ記憶力や知識の詰め込み、正解の決まっている問題を解く作業などはコンピュータが最も得意とするところであり、受験勉強で身につけてきた能力や入試で問われる能力の大半は、ノートパソコン一台で取って代わることができる。あと五、六年もたてば、コンピュータが東京大学に「合格」できるともいわれているくらいだ。
 だとしたら、これらの能力は一定水準あればよく、それ以上のレベルで競争させても若者を疲弊させるだけで意味がないということになる。現実世界の要請から遊離した受験スペシャリストのチャンピオンを選ぶ現在のシステムの延長線上に、正しい方向性は見えてこない。

 情報化・ソフト化が進んだポスト工業化社会には、たしかに独創性や創造性が重要になる。しかし、そもそもだれも答えを出していないし、そこへいたるプロセスもパターン化できないからこそ独創的なのだし、コンピュータに代替されないのである。したがって予め「正解」を用意して独創性・創造性を判定しようとすること自体が自己矛盾である。

 そこで、「選別ができる」「選別すべきである」という固定観念を思いきって捨てた方がよい。
 一次はセンター試験に代わる資格試験的な試験を行い、二次は抽選にするのである。

 暴論だとか責任放棄だとか思われるかもしれないが、はたしてそうだろうか?
 かりに実現したら、どのような変化が生まれるかを予想してみよう。いくら幼時から受験勉強に力を入れても二次の抽選で落ちたらどうしようもないので、一次試験に通るだけの勉強はしなければならないが、それ以上の無意味なゼロサム的受験勉強から解放される。その結果、受験に有利か不利かといったことに縛られず、語学だとかスポーツだとか、科学だとか、一人ひとりの興味や特性を活かした勉強に取り組むことができる。そこではじめて「ゆとり教育」の崇高な理念も実を結ぶ。
 要するに長年、受験戦争、受験社会の弊害とされてきた問題が根本的に解決されるわけである。

 実際に運営するに当たっては、大学ごとに一次募集、二次募集というように定員を定めて抽選すれば、ぜひとも国立大学に行きたいという者は、一定の学力さえ備えていればかなり高い確率で入れるはずである。当然、人気のある大学ほど受験者が増えるが、抽選の倍率も高くなるので適度に分散される。そして運悪く抽選に漏れた者やこれまでどおりの受験で入りたい者は私立大学を受ければよい。

 このような制度を本気で導入しようとすれば、さまざまな利害関係者からの批判や抵抗が起きることは明らかだ。しかし、これくらい思いきった改革をしなければ、日本社会にも若者にも明るい未来はやってこないと私は確信している。
 
(2014/1/18)

テーマ:大学受験 - ジャンル:学校・教育

  1. 2014/01/18(土) 13:34:43|
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『子どもが伸びる ほめる子育て -データと実例が教えるツボ-』ちくま新書、2013/11/5刊

「ほめることが大切だ」「いや、ほめないほうがよい」「ほめるより認める方がよい」・・・いろいろな意見が飛び交っています。
 しかし、限られた体験や印象論だけで論じるのは危険です。どんな場合に、どのようにほめたり認めたりすると効果があるのか? 逆効果になるのはどんなときか? ほめるのと認めるのとはどこが違うのか?
 ほめること、認めることの意味を深く追究し、それを実証してこそ、効果的なほめ方、認め方をはっきりと示すことができます。
 本書は、大量の幼稚園児、中高生を対象にした before - after の研究プロジェクトや、大学生の臨界事象法による「ふり返り」などから、ほめる効果の核心に迫ります。
 そのうえで、思春期・反抗期の子、長男・長女とすえっ子、内気な子と活発な子のほめ方など実践的な方法、そして親子関係の意外な盲点についても書いています。


[目次と主な内容]

●第1章 子どもをほめたら、こんな効果が

 幼稚園児、中高生、社会人、計1000名以上を対象にした研究プロジェクトの結果、「上手に」ほめるたら得意なものができ、自己効力感や勉強の充実度が高まること、成績が上がることが判明。

●第2章 ほめて伸ばす(基本編)

 ほめ方によっては、効果がないばかりかかえって逆効果になる。また一時的に喜ばせたり、やる気にさせたりするほめ方と、自ら伸びるエンジンをつくらせるほめ方とはまったく違う。大学生数百人の「ふり返り」や学校、塾、家庭での聞き取りから、子どもを伸ばすほめ方、叱り方のツボを示す。

●第3章 こんなときには、こうほめよう(応用編)

 上記の「ツボ」を押さえながら、ほめどころが見つからない子には、また子どもが落ち込んでいるとき、反抗期を迎えたときにどんなほめ方が有効かを説明する。

●第4章 「子どもが伸びる」親子関係とは?

 子どもを伸ばす三つのポイント。
 子育て熱心、仕事ができる親が陥りやすい落とし穴を指摘する。

(2013/11/4)

テーマ:オススメの本の紹介 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/11/04(月) 16:16:53|
  2. 新刊紹介
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文章量と思考のスケール

 小説ではないが、読み始めるととても面白い。引き込まれて一気にほんの半分くらいまで読んでしまった。後半はどんなことが書かれているだろうか? それを楽しみにしながら読んでいると、途中から急にくり返しや新鮮味のない話、冗長な文章に変わり、まったくつまらなくなった。まるで別人が書いた文章のようだ。こんな本にしばしば出合う。原因は単純。書こうとしている内容が本一冊分に足りなかったからだ。もっとも、これはある意味において誠実な著者で、なかには乏しい内容を無理矢理引き延ばして一冊の本を書きあげる人もいる。
 ボリュームがあり、しかも体系や展開のある本を一冊書くにはそれなりの構想や思考のスケールが必要になる。そのため短文は得意だが長文は書けないという人も少なくない。
 つまり、書く文章の分量と思考のスケールとはある程度比例しているのではないかということである。ただ、それは本人の能力の問題というより、思考の習慣によるところが大きいように思える。長い文章を書き慣れると自然に思考の体系もふくらむし、短い文章ばかり書いていると無意識のうちに思考のスケールも小さくなるようだ。
 ツイッターが普及してから若い人の文章がうまくなった。しかし140字で考える人が増えているように感じる。そうだとしたら、ツイッターや携帯メールは、思考という人間にとって最も重要な問題に悪影響を及ぼしている可能性がある。憂慮すべき問題である。

(2013/10/1)
  1. 2013/10/01(火) 22:07:03|
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功績の継承を許さない選挙というシステム

 私は企業でも役所でも、興味深い制度を取り入れているところがあればどこへでも飛んでいって取材する。自分でいうのもなんだが、フットワークは軽いほうだ。
 ところが最近、それがなかなかうまくいかない。とくに役所が問題だ。情報を得て、いざ訪ねてみようと思い、依頼の電話をすると決まったように「その制度、今はもうありません」という答えが返ってくる。それも一度や二度ではなく、ことごとくである。何か不都合があったのかと訊いても、とくに納得できるような理由は聞かれない。皮肉なもので、ユニークな制度や注目を集めた制度ほど消滅するのも早いようだ。

 原因ははっきりしている。選挙というシステムが既存の制度を葬り去るのである。新しく当選した首長にとって、前首長の「遺産」など何の価値もない。それどころか、とても目障りなものなのだろう。しかもユニークで世間から注目される制度ほど、自分にとっては邪魔である。早く前首長の色を消して、自分の色を出したい。しかも、それができる立場にある以上、そうするのは当たり前かもしれない。
 生物学的にとらえるなら、動物のオスがメスと一緒になるとき、前のオスがつくった子を殺してしまうのと通じるものがあるかもしれない。とにかく前の遺伝子を消し去り、自分の遺伝子を残そうとするのである。
 しかし、いずれにしてもそのような行動は住民の利益とは無関係だ。いや、制度改革が政治的パフォーマンスの道具に使われたら住民にとって迷惑このうえない。

 もっとも、素朴な民主主義を信奉する人のなかには、長期的な視点からそれを容認する人がいるかもしれない。動物が自然淘汰で進化してきたように、民主主義もそうやって進化するのだと。
 はたして、そうだろうか? 私は楽観的にはなれない。
 第1に、4年に一度という選挙制度が適応を妨げる。たとえ制度「改悪」が少々住民の反発を招いても、4年たったら忘れられる。4年後の選挙には、前首長の実績を引き継いだことより、自分で制度をつくったという実績のほうがプラスになる、というくらいの計算はしているはずだ。
 第2に、民主主義の根幹にかかわる問題だが、選挙で選ばれた人=適者かという問題である。たしかに動物の闘いなら勝者=適者といえるだろう。同じように民間企業なら、株価や利益といった比較的客観性の高い基準がある。だから民間企業なら、新しい経営者は前経営者のつくった制度でも良い制度は残しておいたほうがトクだ。したがって優れた制度は生き残る可能性が高い。それに対し、行政の場合には残念ながら有権者の判断に役立つ客観的な基準がない。しかも、専門的で複雑な制度になるほど一般の有権者には評価が難しくなる。よく言われるように、民主主義は国民(住民)のレベル以上には発展しないのである。

 必要な対策ははっきりしている。有権者が正しく判断できるように、第三者が制度を評価してわかりやすく示すしかない。たとえば、選挙前に第三者機関が立候補予定者に対して「○○制度は80点と評価されています。この制度を残すのですか、変えるのですか? 変えるならどんな制度を取り入れるつもりですか?」といようにな公開質問をしてはどうだろう。
 民主主義の弱点を補う工夫をしない限り、賽の河原の石積みは永遠に続く。
  1. 2013/08/26(月) 09:18:52|
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夜郎自大

 今年の夏もまた高校野球で盛り上がった。その立役者の一人が花巻東高校の千葉君だ。ファウルで粘って出塁する彼のプレースタイルはユニークで、試合展開から離れたところでも注目された。ところが準々決勝の試合終了後、いきなり審判から「スイングではないのでスリーバント失敗でアウトにする」と宣告された。彼が動揺したのはいうまでもなく、次の試合では活躍できないまま甲子園を去った。

 私が見る限り、あれをバントとはいえない。あれでスイングしていないというなら、流し打ちはすべてアウトになる。しかも、それまで認めておきながら、準決勝を前に突然ダメだというのはフェアでない。
 おそらく審判は、彼が想定外のプレーでトリックスター的な活躍をするのを「大人」として放置できなかったのだろう。背後にあるのは、「高校生らしさ」を自分たちが守る、という行き過ぎた自負心である。

 ふと、一昔ほど前に登場した「正義の味方」を思い出した。「額に汗して働く人々・・・が憤慨するような事案を万難を排しても摘発したい」と唱え、ライブドアの堀江氏をはじめ「一攫千金」をもくろむ若手起業家たちを次々に逮捕した当時の東京地検特捜部長である。

 両者とも掲げている理想はまともに見えるが、そこにはとても危ういものがある。百歩譲って高校野球には「高校生らしさ」が求められるとしても、それを具体的に定義するのは高野連などの組織、あるいは世論である。少なくとも審判にその権限が委ねられているわけではなかろう。特捜部長の発言も同様で、どのような社会が望ましいかは彼が決めることではない。越権行為、夜郎自大も甚だしい。

 審判にしても特捜部長にしても大きな権限、権力を握っている。しかし、その権力行使に自分の理想像や社会観で裁量を加えることはけっして許されないはずだ。権限を委ねられているものは、どこまでも謙抑的であらねばならない。
  1. 2013/08/23(金) 19:36:19|
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「グローバル人材育成」のパラドックス

 「自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)は4日、世界で活躍できる人材を育成する対策を盛り込んだ提言をまとめた」(今朝の日本経済新聞)という。
 ここ10年、20年の間、「グローバルに通用する人材を育てなければならない」と言われ続けてきた。そして語学力やプレゼン能力の向上が課題とされてきた。

 しかし、それがいちばんの課題だろうか?
 相手の立場に立って、素朴に考えてみてほしい。ペラペラとしゃべりかけてきたり、仲間に入りたがったりするけれど魅力のない人や付き合う価値のない人ほど迷惑なものはない。そもそもグローバルな人材を育てようという発想そのものが、態度を受け身にし、結果としてグローバルに通用しない人間ばかりつくってしまう。
 実際、グローバルに活躍している人をみると、自分の夢や目標を持ち、あるいは使命感を抱きながら生きていて、それが結果的に日本という国境を越えていた、というだけだ。

 ほんとうの意味でグローバルな人材を育てようとするなら、大きな夢や志を抱き、それを自分の意思で実現できるような環境をつくらなければならない。ところが現状をみると、社会も組織も、評価の厳格化だの細かい制度づくりだの、それに逆行することばかりやっているようにみえる。「権限委譲」や「裁量拡大」なども、わが国では幹部クラスまでで、末端の人の権限、裁量範囲はとても狭い。そして、自分の努力や能力で何ができる、何が獲得できるかがはっきりしない。

 子育てに熱心な親が、あれこれ干渉し、枠をつくってしまって伸びる力を奪ってしまうのと同じだ。少し乱暴な言い方をするなら、グローバル人材を育てるのにいま必要なのは、上に立つ者が「邪魔をしない」ことではないか。
 これは「グローバル人材の育成」にかぎった話ではない。いちばん大切なものは何かをしっかりと見きわめるべきである。

(2013/4/5)
  1. 2013/04/05(金) 10:59:36|
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「マーケットイン」の陥穽

 企業では「プロダクトアウトからマーケットインへ」というのがもはや当たり前である。いくら良いモノをつくったつもりでも、消費者の嗜好や市場の動向を無視しては売れない。もっと消費者や市場に対して謙虚になれ、というわけだ。

 その影響は、雇用や人材マネジメントにも及んでいる。即戦力の人材を求める傾向は強いし、顧客や市場にいちばん近いところにいる現場の社員を最上位に位置づける、逆ピラミッド型組織をシンボルとして掲げる会社も増えている。

 しかし、「プロダクトアウト」的な風土は、教育や社会生活から個人、集団の考え方にまで深く染みこんでいる。多くの人が工業社会のモノづくり的発想を正しいものとして疑わないのだ。そのため、なかなか発想の切り替えができない。

 自分自身をふり返っても、反省させられることが多々ある。たとえば、要らなくなったものでも、「いつか使えるかもしれない」とか「良い品だから」と、なかなか捨てられない。そのため家の中は不要物であふれている。
 また文章を書くときにも、このアイデア、この情報は是非使いたいという気持ちが先行し、ついつい冗長になったり、ときに展開を歪めてしまったりする。

 その点、ある意味で切り替えが早かったのは政治の世界かもしれない。「官僚政治から政治主導へ」というのはその象徴であり、ポピュリズムは蔓延した。選挙の当落という究極の利害がかかっているので、切り替えが早いのは当然だろう。マスコミも「意識調査の結果」だの「国民の声」だのとあおり立て、ポピュリズムに手を貸していることはいうまでもない。

 けれども、そこには大きな落とし穴がある。消費者にしても選挙民にしても全知全能ではないのだ。自分たちが選んだ結果を自分たちが支持しないというパラドックスが存在する。個人の選択の集合が人々の総意からかけ離れるという「合成の誤謬」も生まれる。お客様が神様だとか国民の意思が絶対だとかいうのは、消費者や国民に嫌わないためのタテマエであるにもかかわらず、それをまともに信じきる人が増えているのだ。
 その結果、「お客様は神様です」と祭り上げる会社や、「国民の意思」を錦の御旗に掲げる政党・政治家を、消費者や国民はやがて「頼りない」と見放す。事実、消費者の嗜好に敏感なだけの会社から大ヒット商品は生まれていないし、国民のウケを狙いすぎた政党・政治家はたちまち壁にぶつかっている。

 やはり、企業も、政治家も、マスコミも、顧客、市場、国民の「潜在的なニーズ」を探り、それに応えることで支持を得るのがオーソドックスなやり方だろう。しかし現実には、旧パラダイムにドップリつかりきるか、半知半解の新パラダイムをかざすかの両極端を揺れ動いているようにみえる。少し視野を広げてみると、この現象もまた旧パラダイムの一部といえるかもしれない。
  1. 2013/02/21(木) 10:52:19|
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「水清ければ魚棲まず」

 今日の読売新聞によると、瀬戸内海の水がきれいになったため魚がとれなくなり、漁師たちは悲鳴をあげているそうだ。
 「水清ければ魚棲まず」。これは、今の日本の組織や社会にも当てはまるのではないか。

 昨日は、プロ級の釣りの腕前を持つ警官が、雑誌に投稿して原稿料を受け取っていたとして処分され、退職したことが報じられていた。また先日は大阪の公務員が仕事の帰りに10分だけ喫茶店に入り、処分を科されていた。公務員だけでなく、一般のサラリーマンも含めて管理がいっそう厳しくなっている。

 かつて出世する公務員は「清濁併せのむ」タイプだといわれたが、今は濁った水を一滴でも飲んだらアウトだ。また会社でも役所でも、ちょっと油断したらセクハラ、パワハラ扱いされるので、部下をもつ人たちはたいへんデリケートになっている。
 政治家も同じで、能力の有無、業績のあるなしにかかわらず、ちょっとでも落ち度があると徹底的にバッシングされ、追放される。
 かくして清廉潔白だけが売り物の人間が生き残り、組織や社会の舵取りを委ねられるようになる。

 「それがなんで悪い」と言われるかも知れない。たしかに清く正しいに越したことはない。しかし、はたしてそれだけで世の中が回るだろうか? そして、人々にとって居心地がよく、幸せだろうか?
 気づかないだけで、汚れ役を引き受けたり批判のリスクをとったりする人がいたために組織も社会も回っていたという面がある。規則を杓子定規に当てはめ、模範的な行為をするだけでは立ちゆかなくなる例は至る所に存在する。清廉潔白をウリにする人たちは、汚れ役を引き受ける人がいるために自分が清廉潔白でいられるということも自覚したほうがよい。

 こういうと悪事を奨励しているように受け取られるかも知れないが、もちろんそうではない。
 どこまでもクリーンであることを要求して極端な減点評価になると、組織や社会の活力は低下し、人々のやる気もやりがいも犠牲になりかねない、といいたいのである。

(2012/8/26)
  1. 2012/08/26(日) 13:07:53|
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「最適基準」と「満足基準」

 学者や識者の中には、マスコミから取材を受けたとき、記事内容について確認を求めたり、細かいところにこだわって修正を要求したりする人がいる。記者の立場からすると、よほど「余人をもって代え難い」人でないかぎり、面倒なのでもうあの人に取材するのはやめようと思うだろう。

 講師をを招聘するときや専門家を採用するときも、「面倒な」人は敬遠される。
 本人は自分の存在を過大評価し、あるいは「実力主義」のタテマエを信じてしまいがちだが、本当のところは「代わりはいくらでもいる」のだ。まして企業や役所の採用人事などになると、「余人をもって代え難い」新人などいるはずがない。

 H・A・サイモンは意思決定のメカニズムについて、最適の選択肢を探す「最適基準」と、一定の水準を満たしていたらよしとする「満足基準」に分け、マネジャーは通常「満足基準」で意思決定していると述べた。

 取材をするときも、講師を招くときも、また人を採用するときも、人選する側にとってだれを選ぶかは正直なところそれほど重大な関心事ではない。たいていは「満足基準」で選んでいるのである(いっぽう本人は丁重に扱われると「最適基準」で選ばれているかのように勘違いしてしまう)。
 人選する側にとって、人材の優劣の差よりも、煩わしさの差のほうが実は大きいのだ。だから、「面倒な人はやめておこう」となる。

 それを考えたら受ける側は、それとなく「私は面倒をかけませんよ」とアピールするのが意外と有効な戦略かもしれない。まじめな話。
 
 (2012/7/3)

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  1. 2012/07/03(火) 18:40:36|
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虚栄心、自己顕示欲は衰えず

 ビジネスマンや官僚として社会的地位を築いた人のなかには、エッセイや講演で故事、歴史、文化などの教養をひけらかす人がいる。わざと難解なことばを使う人もいる。こちらとしては色眼鏡で見てはいないつもりだが、どこか違和感がある。原因は、エッセイや講演のテーマを語るうえで必要のない話や言葉だからである。必要があってそうした知識が自然にでてくるのか、それを使うことが自己目的化しているのかが、プロフェッショナルとディレッタントとの違いだ。
 必要のない話や語句をとってつけるだけならまだしも、教養をひけらかすためにわざわざ主張の内容までゆがめてしまうこともある。そうなったら、もう滑稽ではすまない。

 なぜ、それほど「教養」をひけらかしたいのか?
 それはおそらく文化人、知識人へのあこがれである。すでに獲得している専門的な知識や能力への評価だけでは満足できず、文化人、知識人という、より人格的な性格の強い評価を得たいからだろう。
 しかし上記のように、木に竹を接いだような話になっては、かえって人間の底の浅さを露呈してしまう。
 
 ところで、日本経済新聞に「交遊抄」という欄があるのをご存じだろうか?
 各界で活躍し、それなりの地位を得ている人が友人、知人との交友関係を自ら紹介するコーナーだ。読んでいると、特定の型にはまった記述がとても多いことに気がつく。
 たとえば、こんなふうだ。

 「私には気のおけない二人の親友がいる。一人は○○君、もう一人は△△君で、ともに東大の□□ゼミで学んだ。○○君は絵に描いたような秀才で、学部を首席で卒業し、××省に入った。いっぽう△△君はリーダーシップに優れ、・・部のキャプテンとしてチームを対抗戦の優勝に導いた。彼らと対照的にずぼらな私は、大学へはめったに顔を出さずアルバイトや映画館通いに精を出していた。あれから三十年たった今、○○君は××省の局長、△△君は国会議員として、それぞれの才能をいかんなく発揮しながら難局に立ち向かっている。落ちこぼれだった私も幸運に恵まれ、なんとか経営者としての役目を果たしている。お互いに多忙で卒業以来、二、三度しか会っていないが、いずれ時間に余裕ができたら一緒にワイングラスでも傾けながら人生を語りたいものだ。」

 ほんとうにこの二人が親友かどうかわからない。また、社会に出てから親しい友人ができなかったことを白状しているようなものだ。めったに会わないのに何が「交遊抄」かというケチもつけられよう。しかし、そんなことは本人にとってどうでもよいのだ。自分が東大に行っていたこと、勉強しなくても元々優秀なので今の地位に就いていること、「偉い」友人がいることをわかってもらえさえすればよいのである。
 「交遊抄」という欄は、人間の性(さが)をあぶり出してくれる貴重なコーナーだ。

 功成り名を遂げても、人間の虚栄心や自己顕示欲は衰えないものである。ずっと昔に、「かぎりないもの、それが欲望-」という歌があったが、虚栄心や自己顕示欲にもそれはもろに当てはまる。人間らしくてよいという見方もできようが、社会的地位や影響力のある人のことだけに、手段が目的化して主張をゆがめるようではちょっと不安になる。

(2012/1/24)
  1. 2012/01/24(火) 22:53:43|
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「絆」が「くびき」に変わるとき

 今年の漢字は、大方の予想どおり「絆」だった。
 国民の間で自然に支持されたというより、マスコミ主導で崇められるようになった漢字というようにも思えるが。

 いずれにしても、老若男女関係なく手を差しのべ、支え合う被災地の人々や、離れていても被災者のために何か力になりたいという思いを寄せる人たちの優しさと行動力には心を打たれる。そこには純粋な「絆」の存在を感じ、胸が熱くなる。そして、日本人であることを誇りに思う。

 しかし一方で、「絆」が叫ばれるようになるとともに、そこに危険な臭いを感じとった人も多いのではなかろうか。その象徴が、同時に流行した「自粛」「謹慎」という言葉だ。震災後は、卒業式、送別会、花見、入学式など諸行事の「自粛」が相次いだ。ちょっとハメを外したり、ぜいたくをしたりすると、「不謹慎」だと非難された。
 とくにインターネット上のバッシングなどをみていると、パーマネントをかけただけで「非国民」呼ばわりされた戦時中と何も変わっていないのではないかという印象をもった。隣近所に張りめぐらされた監視の目がネット上に移っただけである。

 社会は個人の自律と連帯との微妙なバランスの上に成り立っている。ただ西洋と比較すると日本社会はもともと連帯の方にかなり軸が傾いているし、傾くのを押し止める装置がない。そのため、連帯は容易に束縛へと移行する。
 「自粛」にしても「謹慎」にしても、本来は自分の意思で行うものだ。ところが日本では、他人にそれを押しつけようとする。「自粛」ではなく「他粛」だ。あるいは組織や団体のトップが、その立場上「自粛」や「謹慎」を口にすると、他のメンバーはそれに従わざるをえなくなる。

 そして、そもそも被災者、被災地を慮ったはずの「自粛」や「謹慎」が、ほんとうに被災者、被災地のためになっているかどうか、はなはだ疑問だ。その原点を離れて束縛し合い、たたき合う現象が起きるところに日本社会の病根がある。

 せっかく「絆」という言葉が膾炙されたのだから、その言葉をとおして日本社会の光と影をもう一度みつめ直してもよいのではなかろうか。
 
(2011/12/14)
  1. 2011/12/14(水) 09:14:04|
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「成果主義」と競争

 「あなたは成果主義に反対だというが、競争をなくしたら悪平等におちいるではないか」と批判されることがある。
 誤解しないでほしい。私は「成果主義」には反対だが、競争には反対していない。

 それは、「成果主義」イコール競争原理ではないからである。
 私の立場は、いわゆる個人主義、すなわち究極の価値は個人の利益、幸せにあると考える。ただ個人主義といっても孤立した個人を理想とするわけではない。人間には仲間同士の交流や共感を求める欲求があるし、個人を守り、生かすために連帯も必要とする。ただ、個と全体とが対立したとき、できるかぎり個の方を優先するというスタンスをとる。

 個を尊重するために強力な全体が必要だというホッブスのような考え方もある。しかし、全体と個は緊密にリンクしているわけではない。たとえていうと、ワイヤーではなく弛んだチェーンのような関係にあると考えている。「公共の福祉」による制約なども、無制限に認めるべきではないと思う。

 厄介なことに、人間には他人より秀でたいとか、競争に勝ちたいといった欲望、あるいは本能のようなものがある。社会主義が失敗したのは、それを軽視したためだろう。したがって社会の中ではもちろん、生活の糧を得る場であると同時に生きがいの場である組織のなかにおいても、競争をなくすことはできない。競争はまた、それが組織や社会の活力にもつながる。だから私は競争を否定しない。
 もっとも、弱肉強食の競争は組織や社会を破壊するのみならず、個人の利益も脅かす。したがって実質的な機会均等が保証されなければならないし、富の再分配やセーフティネットも必要だ。

 では、なぜ「成果主義」に賛成できないのか?
 それは、「成果主義」が組織の論理に基づいているからである。世にいう「成果主義」は、組織という閉ざされたシステムのなかで地位、金銭、名誉を奪いあう、「ゼロサム」原理に支配されている。しかも、その配分は上司の評価にもとづいて行われる。したがって、そのプロセスは全体主義的である。

 だから私は、競争は肯定するが「成果主義」には賛成できないのである。
 「成果主義」ではない競争。それは一種の市場メカニズムである。ただ、必ずしも金銭を媒介にしない。たとえば市場や顧客、住民の中に入っていって活躍し、承認や名誉を獲得するのがそれである。承認や名誉が報酬に反映されるようにすれば、かぎ括弧を外したほんとうの意味での成果主義になる。それなら私も賛成する。

(2011/12/7)
  1. 2011/12/07(水) 22:14:30|
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公務員の"やる気"を左右するもの

 『公務員革命』に書けなかったエピソードを一つ紹介しよう。

 東京近郊の市に住むYさんが、こんな話を聞かせてくれた。

 Yさんのお母さんが市役所の窓口を訪れたときのことである。そこにいた職員に手続きのしかたを尋ねたところ、黙ったまま身振り手振りで教えてくれた。お母さんはてっきり、その職員は言葉が不自由なのだと思い、障害者を雇用している役所に感心したそうだ。ところが、用事が済んでたまたまその職員に目をやると、彼は仲間とふつうに会話しているではないか。お母さんがそれを見てあきれたのは言うまでもない。

 その話を母親から聞かされたYさんは、市の職員に対して良いイメージをもっていなかった。
 ところが、しばらくたってそのイメージを一変させる出来事が起きた。
 Yさんは自宅でぎっくり腰に襲われ、一歩も歩けなくなった。やむなく救急車の世話になることになった。すると、やってきた救急隊のスタッフたちはYさんの容態に気をつかいながら、とても迅速に救護してくれた。至れり尽くせりの行き届いた処置だったという。
 Yさんは、その仕事ぶりに感激すると同時に、これが同じ市の職員なのかと信じられない気持ちになったという。

 同じ公務員でも、やる気のある職員とそうでない職員はそれほど違うのか。そう受け止める人が多いだろう。
 しかし、かりに押し黙ったまま応対した窓口の職員と、水際だった処置をした救急隊員の立場が入れ替わったら、果たして今と同じ仕事ぶりをみせるだろうか? 持ち場が替わって長年その仕事を続けたら、態度が入れ替わってしまうかもしれない。
 救急隊員は仕事に使命感をもつことができ、常に市民から感謝される。だからますますモチベーションは高まる。いっぽう窓口の職員は、仕事が単調なうえ、市民からは良い仕事をして感謝されるより、手際の悪さに不満を漏らされることのほうが多いのではないか。つまり救急隊員は「表の承認」を得る機会が多いのに対し、窓口の職員は「裏の承認」が中心である。

 両者の対照的な働きぶりをみると、公務員の"やる気"のあるなしは、必ずしも本人の資質によるものではないし、成果主義によるものでもないことがわかる。そして、今後の公務員改革もおのずとその方向性がみえてくる。

(2011/11/3)

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  1. 2011/11/03(木) 15:35:13|
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「いつでも、どこでも」つながる社会は幸せか?

 今朝、大学へ向かう途中、自転車に乗っていたら女性が突然、道路の真ん中にはみ出してきて危うくぶつかりそうになった。ふり返ってみたら、予想どおりイヤホンをしてスマートフォンをいじっている。もはや、こんな経験は日常茶飯事だ。
 これだけ夢中になるくらいだから、人とつながり、コミュニケーションをとるのはとても楽しいのだろう。

 I T はどんどん進化し、やがて世界中のだれとでもいつでも好きなときに顔を見ながらコミュニケーションがとれるようになるに違いない。いや、もう片足をそこに踏み入れているといってもいい。
 もっとも、時代の先端を行き続ける人がいる一方で、それにまったく関心のない人や、時代の波に翻弄されるのを恐れる人がいる。後者は、「情報やコミュニケーションに振り回されたくない」という。

 はたして、「いつでも、どこでも」つながる社会は幸せなのだろうか?
 それを歓迎する人たちは、かたくなに拒否する人たちに対して、「抵抗感やストレスは単に習慣の問題だ」とか、「孤独になりたいときには通信を切断すればよい」と説得するだろう。

 しかし、そう単純なものでもなさそうだ。
 この問題は、習慣的な問題と本質的な問題とを分けて考える必要がある。

 たしかに私たちは、新しい環境に慣れたら、それに合った生活様式や思考・行動様式を身につけ、行き交う情報とコミュニケーションのなかで生活し、仕事をすることができるようになるかもしれない。
 ただ、今でも気が進まないのに人と会ったり話したりしなければならないことは多い。連絡を断ったらすむものばかりではない。気遣い、間合い、機微はなかなか難しい。「いつでも、どこでも」の世界では、いっそうそれに悩まされるに違いない。
 
 本質的な問題の一つは、だれにとっても<時間が一日に24時間しかない>という事実である。コミュニケーションは、ある種の思考や行動を必ず阻害する。したがってコミュニケーションが多すぎると、それだけ深い思考や快い反芻、感慨、自由な行動ができなくなるわけだ。
 もう一つの本質的な問題は、それとも関連するが、技術的・倫理的な制約から、<脳をつなぐことができない>というところにある。自分の脳と他人の脳とをつなげない以上、感情を共有するにしても一緒に考えるにしても自ずと限界がある。ある程度以上「便利」になっても、それは効用がないばかりか負の効用になる。

 だからこそ「個人」(individual)なのである。
 幸か不幸か、「いつでも、どこでも」コミュニケートできる社会へ向かって一直線に進んでいくというわけではなさそうだ。
  1. 2011/10/05(水) 13:14:31|
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「学業第一」 特待生は悪か?

 夏の高校野球選手権の全出場校が昨日決まった。それと連動して今日の日本経済新聞では、高校野球の特待生問題が取りあげられていた。
 特待生については、それを肯定する声より、批判的な声のほうが大きい。たしかに、いろいろな問題があることは事実だ。しかし私は、特待生をなくすべきだという声が大きいことのほうに不安を覚える。

 特待生を否定する人たちは「学業第一」を錦の御旗として掲げる。たしかに高等学校は学業のためにつくられたのであって、プロスポーツ選手を育てるためにつくられたのではない。しかしスポーツ少年の中には、勉強は苦手だがスポーツなら負けないという子や、スポーツで身を立てたいと思っている子もたくさんいるはずだ。もちろんスポーツに限らず、芸術や各種技能でも同じである。
 そういう子たちに能力を伸ばす機会をぞんぶんに与えてもいいではないか。こう言うと、「それなら学校以外の場で伸ばせばいい」という反論が返ってきそうだ。しかし、わが国のどこにそのような場があるのか?プロ野球選手やJリーグの選手に、高校以外で才能を伸ばした者がどれだけいるか?

 ところで公立の小学校や中学校では、水泳が得意な子、足の速い子、一輪車に上手に乗る子、セミ採りが得意な子は教師や同級生から拍手が送られ、クラスの人気者になる。しかし勉強ができる子、有名私学に合格した子には教師も同級生も冷たい。それは、勉強ができる、有名私学に入ることのほうが重要だとみんなわかっているからである。
 さらにその先には、より偏差値の高い大学に入り、一流企業に入社、そしてより高い管理職へ「出世」していくという王道がある。「そんな出世主義者は昔のことで、いまは少ない」と言われるかもしれない。しかし、たとえそうであっても、それは目指す人が減っただけで、このような一元的価値観に基づく序列意識は崩れていない。だから伝統的な大企業のエリートや官僚に対する風当たりも強いのだ。風当たりの強さは、ねたみやルサンチマンの強さの裏返しだ。

 私はこの一元的な序列社会がわが国の最大の弱点だと思っている。「出る杭を打つ」風土も、足の引っぱり合いもそこからきている(ちなみに私はそれを「裏承認社会」と呼んでいる)。政治、経済、学術などで日本の地位、存在感が低下し続けているのも、このような序列社会が新しい環境に適応できなくなっているからだろう。

 このように考えたら、「学業第一」というタテマエにこだわるより、多少の不都合はあっても個人個人が得意な分野で才能をどんどん伸ばし活躍できるようにサポートしたほうがよい。そうすると、いろいろなところで既存の体系や秩序が維持できなくなるかもしれない。しかし、その乱雑さの中でこそほんとうに個人が生かされ、組織も社会も活力を取り戻してくるに違いない。体系や秩序を優先するのは本末転倒だろう。
 
(2011/8/2)
  1. 2011/08/02(火) 09:33:51|
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叱られ上手

 会社の社長、学界の大御所、名の通ったジャーナリストが講演後にフロアから思わぬ批判や反論を浴び、まるで子どものように激高したり狼狽したりする姿をしばしば目にする。そんなハプニングを防ぐためか、主催者側は講演後の質疑や意見交換の時間を設けないケースが多い。

 ある程度の地位に就くと、周りには提灯持ちばかりが集まり、「裸の王様」になっていく。きついことを言ってくれるのは、家族かバーのホステスくらいのものだ。だから講演先でも、「すばらしかった」「感動した」という声が返ってくるものと思いこんでいる。反論や批判への免疫が低下しているのである。

 最近は家庭でも、学校や会社でもあまり叱らなくなった。褒めることばかりが強調される。叱ったら嫌われるのではないか、パワハラやアカハラといわれるのではないか、という思いが先行するからだ。その結果、叱られるのに慣れていない若者が増えている。ちょっと叱っただけで自信喪失してしまったり、叱った相手を恨んだりする。
  
 たしかに褒められると心地よいが、叱られると認知的不協和が起きるので不快になる。メンツをつぶされることもある。そのため、耳障りのよい言葉ばかりを求めたがる。しかし、いくら気をつけていても自分のことは見えないものだ。叱られ、注意されて初めて気がつき、そこからまた成長する。逆に言うと、叱られなくなったときにその人の成長は止まるのだ。

 志の高い人は目下の人がものを言いやすい雰囲気をつくり、諫言を成長の糧にしている。また「叱り上手」な人は、相手の受け入れ能力を見極めながら上手に叱ったり、ふだんからときどき叱って免疫をつけたりしている。

 褒め上手、褒められ上手になるのもたいせつだが、叱り上手、叱られ上手になるのはもっと大切かもしれない。

(2011/7/24)
  1. 2011/07/24(日) 09:36:20|
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「部分最適」と「全体最適」

 「どんな災害に遭っても絶対に壊れない家を造ってほしい」。そんな依頼をしてくる人が、世の中にはある一定の割合で存在すると建設会社の人が話していた。

 ある知人は、交通事故に遭ってもけがをしないようにと、燃費の悪い大型車に乗っている。その一方で彼は、いつもバイクを飛ばしながら通勤する。「バイクでけがをする確率のほうが何十倍も高いぞ」と忠告しても耳を貸さない。車が川に転落したときシートベルトを締めていたので脱出できなかったというニュースを見て、それ以来シートベルトは危険なので締めないという人もいた。

 私も人のことは言えない。メタボのイエロー・カードを突きつけられてから、コーヒーに砂糖を入れるのを我慢しているが、食後には甘い物が欠かせないし、酒量は減らせない。
 
 一つのことを考え続けるうちに、全体の中で占めるそのことのウエイトや位置づけを忘れてしまうのはよくあることだ。

 さまざまな安全対策にしても、絶対に安全ということはありえない。結局は安全確率をどこまで上げるかという話になる。その際には、万が一の時にどれだけの被害が出るか、そしてその危険性が他のリスクと比べてどうなのかといった全体的視点がやはり不可欠だろう。

(2011/7/11)
  1. 2011/07/11(月) 12:59:09|
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プロフィール

太田 肇

Author:太田 肇
<ホームページ>
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/

<職業>
「組織学者」としておきます。

<主な研究分野>
組織論
とりわけ、「個人を生かす組織・社会」について

<肩書き>
同志社大学 政策学部・大学院総合政策科学研究科教授
経済学博士

<著書>
◆最新刊 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』(日本実業出版社)

『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)
『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社)
『がんばると迷惑な人』(新潮新書)
『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)
『組織を強くする人材活用戦略』(日経文庫)
『表彰制度』(日本表彰研究所との共著 東洋経済新報社)
『社員が「よく辞める」会社は成長する!』(PHPビジネス新書)
『公務員革命』(ちくま新書)
『承認とモチベーション -実証されたその効果-』(同文舘)
『「不良」社員が会社を伸ばす』(東洋経済新報社)
『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)
『認め上手  -人を動かす53の知恵-』(東洋経済新報社)
『認められる力』(朝日新書)
『日本的人事管理論』(中央経済社)
『承認欲求』(東洋経済新報社)
『お金より名誉 のモチベーション論』(東洋経済新報社)
『「外向きサラリーマン」のすすめ』(朝日新聞社)
『認められたい!』(日本経済新聞社)
『「個力」を活かせる組織』日本経済新聞社)
『選別主義を超えて』(中公新書)
『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書)
『個人尊重の組織論』(中公新書)
『ホンネで動かす組織論』(ちくま新書)
『囲い込み症候群』(ちくま新書)
『仕事人(しごとじん)の時代』(新潮社)
『仕事人と組織』(有斐閣)
『日本企業と個人』(白桃書房)
『プロフェッショナルと組織』(同文舘)

<生活信条>
できるだけ人に迷惑をかけないこと。恩を忘れないこと。

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