太田肇 Critical Essays ”個の視点”

同志社大学政策学部教授 (個人尊重の組織論、モチベーション論)  日常生活のなかで疑問に感じたとき即座に書いたものがほとんどです。不完全な内容や思い違いがあるかもしれませんが、お許しください。

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「マーケットイン」の陥穽

 企業では「プロダクトアウトからマーケットインへ」というのがもはや当たり前である。いくら良いモノをつくったつもりでも、消費者の嗜好や市場の動向を無視しては売れない。もっと消費者や市場に対して謙虚になれ、というわけだ。

 その影響は、雇用や人材マネジメントにも及んでいる。即戦力の人材を求める傾向は強いし、顧客や市場にいちばん近いところにいる現場の社員を最上位に位置づける、逆ピラミッド型組織をシンボルとして掲げる会社も増えている。

 しかし、「プロダクトアウト」的な風土は、教育や社会生活から個人、集団の考え方にまで深く染みこんでいる。多くの人が工業社会のモノづくり的発想を正しいものとして疑わないのだ。そのため、なかなか発想の切り替えができない。

 自分自身をふり返っても、反省させられることが多々ある。たとえば、要らなくなったものでも、「いつか使えるかもしれない」とか「良い品だから」と、なかなか捨てられない。そのため家の中は不要物であふれている。
 また文章を書くときにも、このアイデア、この情報は是非使いたいという気持ちが先行し、ついつい冗長になったり、ときに展開を歪めてしまったりする。

 その点、ある意味で切り替えが早かったのは政治の世界かもしれない。「官僚政治から政治主導へ」というのはその象徴であり、ポピュリズムは蔓延した。選挙の当落という究極の利害がかかっているので、切り替えが早いのは当然だろう。マスコミも「意識調査の結果」だの「国民の声」だのとあおり立て、ポピュリズムに手を貸していることはいうまでもない。

 けれども、そこには大きな落とし穴がある。消費者にしても選挙民にしても全知全能ではないのだ。自分たちが選んだ結果を自分たちが支持しないというパラドックスが存在する。個人の選択の集合が人々の総意からかけ離れるという「合成の誤謬」も生まれる。お客様が神様だとか国民の意思が絶対だとかいうのは、消費者や国民に嫌わないためのタテマエであるにもかかわらず、それをまともに信じきる人が増えているのだ。
 その結果、「お客様は神様です」と祭り上げる会社や、「国民の意思」を錦の御旗に掲げる政党・政治家を、消費者や国民はやがて「頼りない」と見放す。事実、消費者の嗜好に敏感なだけの会社から大ヒット商品は生まれていないし、国民のウケを狙いすぎた政党・政治家はたちまち壁にぶつかっている。

 やはり、企業も、政治家も、マスコミも、顧客、市場、国民の「潜在的なニーズ」を探り、それに応えることで支持を得るのがオーソドックスなやり方だろう。しかし現実には、旧パラダイムにドップリつかりきるか、半知半解の新パラダイムをかざすかの両極端を揺れ動いているようにみえる。少し視野を広げてみると、この現象もまた旧パラダイムの一部といえるかもしれない。
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  1. 2013/02/21(木) 10:52:19|
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「いつでも、どこでも」つながる社会は幸せか?

 今朝、大学へ向かう途中、自転車に乗っていたら女性が突然、道路の真ん中にはみ出してきて危うくぶつかりそうになった。ふり返ってみたら、予想どおりイヤホンをしてスマートフォンをいじっている。もはや、こんな経験は日常茶飯事だ。
 これだけ夢中になるくらいだから、人とつながり、コミュニケーションをとるのはとても楽しいのだろう。

 I T はどんどん進化し、やがて世界中のだれとでもいつでも好きなときに顔を見ながらコミュニケーションがとれるようになるに違いない。いや、もう片足をそこに踏み入れているといってもいい。
 もっとも、時代の先端を行き続ける人がいる一方で、それにまったく関心のない人や、時代の波に翻弄されるのを恐れる人がいる。後者は、「情報やコミュニケーションに振り回されたくない」という。

 はたして、「いつでも、どこでも」つながる社会は幸せなのだろうか?
 それを歓迎する人たちは、かたくなに拒否する人たちに対して、「抵抗感やストレスは単に習慣の問題だ」とか、「孤独になりたいときには通信を切断すればよい」と説得するだろう。

 しかし、そう単純なものでもなさそうだ。
 この問題は、習慣的な問題と本質的な問題とを分けて考える必要がある。

 たしかに私たちは、新しい環境に慣れたら、それに合った生活様式や思考・行動様式を身につけ、行き交う情報とコミュニケーションのなかで生活し、仕事をすることができるようになるかもしれない。
 ただ、今でも気が進まないのに人と会ったり話したりしなければならないことは多い。連絡を断ったらすむものばかりではない。気遣い、間合い、機微はなかなか難しい。「いつでも、どこでも」の世界では、いっそうそれに悩まされるに違いない。
 
 本質的な問題の一つは、だれにとっても<時間が一日に24時間しかない>という事実である。コミュニケーションは、ある種の思考や行動を必ず阻害する。したがってコミュニケーションが多すぎると、それだけ深い思考や快い反芻、感慨、自由な行動ができなくなるわけだ。
 もう一つの本質的な問題は、それとも関連するが、技術的・倫理的な制約から、<脳をつなぐことができない>というところにある。自分の脳と他人の脳とをつなげない以上、感情を共有するにしても一緒に考えるにしても自ずと限界がある。ある程度以上「便利」になっても、それは効用がないばかりか負の効用になる。

 だからこそ「個人」(individual)なのである。
 幸か不幸か、「いつでも、どこでも」コミュニケートできる社会へ向かって一直線に進んでいくというわけではなさそうだ。
  1. 2011/10/05(水) 13:14:31|
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団結と異論

 「今の組織では同僚を信頼できますか?」
 「職場の仲間が仕事に行きづまったり、困ったりしたら助けますか?」
 「あなたは自身のノウハウ情報を仲間に進んで教えますか?」

 いずれの質問でも、「イエス」と答えた日本人は欧米人に比べて著しく少ない。かつて新聞にも紹介された、ある調査結果だ。
 日本社会、日本の組織では常に全会一致を旨とする。反対意見があると前に進まない。そのため異論を唱える者がいると、抑圧したり排除したりする。そもそも感情的に許せないのだ。
 当然ながら、今回の震災のような非常時にはいっそうそれが強くなる。

 非常時にはみんなが団結し、助け合わなければならない。しかし、そこで異論を排除し、また不用意な発言をした人を徹底的にバッシングすると、かえって団結が損なわれることがある。表面的には一致団結しているように見えるが、抑圧された異論、バッシングされた人たち、あるいは異論に共感する人たちが、納得しないまま水面下で不満を抱え、団結の足を引っぱり共同体にひび割れを生じさせる。
 冒頭に紹介した調査結果も、それを示唆しているように思える。

 だれでも絶対的に正しいと思っていた考えが、あとで冷静になってみると間違っていたと気づいた経験があるだろう。「これは絶対許せない」といきり立って非難したことが、別の見方をしたら、あるいは相手の言い分を聞いたら納得できることもある。

 異論や少数意見。個人的な利害の主張。それらに耳を傾けたうえで協力できる道を探っていくほうが、遠回りのようでも結局は、有効な団結への道につながるに違いない。日本人の成長、度量が試されるときだ。

(2011/3/24)
  1. 2011/03/24(木) 11:07:57|
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連帯責任の罪

 テニスの名門私立高校で部内の傷害事件が発覚した。連帯責任をとらされた部員による暴行もあったそうである(連帯責任を科した者が誰かはともかく)。こうした事件が起きるたびに、連帯責任がいかに不条理で陰湿なものかをあらためて痛感する。
 野球、ラグビーなどの団体競技では部員の不祥事が発覚すると、チームが出場停止などの処分を科されてきた。そして私たちは、それを当然のように受け止めてきた。いうまでもなく連帯責任は江戸時代の「五人組」を受け継いだもので管理する側からすると便利な制度だ。
 その反面、個人や社会の立場からすると、きわめて卑劣かつ危険な制度である。一部の者が不祥事を犯したためにチームに出場停止などの処分が下された場合、当人は他の部員からはもとより、所属する学校などの組織、地域などあらゆる関係者から非難やバッシングを浴びることになる。卑劣さの本質は、<処分する者>対<処分させる者>の間の緊張関係を<無関係な者>対<処分される者>に転嫁してしまうところにある。すなわち、処分する側にとっては自分の手を汚さず(というと言い過ぎかもしれないが)に無関係な者からの圧力によって制裁を加えるわけであり、いわば間接的なイジメである。非難やバッシングがときには暴力や人権侵害に発展することも当然、予見できる。それでも連帯責任を科した者に、はたして責任がないと言えるだろうか。
 連帯責任というものの「罪」をもっと認識し、早急に根絶すべきである。とりあえず、連帯責任を負わされた者は怒りの矛先を<処分する者>にも向けてよいのではないか。

(2008/11/13)
  1. 2008/11/13(木) 17:00:02|
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太田ゼミのイベント予告

太田ゼミのイベント予告

①「京都企業のモチベーション戦略」研究発表会 (3年生)
  日時:2008年12月19日(金)17時頃から
  会場:同志社大学新町校舎、臨光館 301教室
  対象:秩序を乱さない方ならどなたでも歓迎します。定員400名。直接会場へどうぞ。
  参加費:無料
  ※ 詳細は、http://ohtasemi3ki.kyo2.jp/



②安藤忠雄氏講演会「可能性は自分でつくる」(4年生 ※同志社大学政策学会と共催)
  日時::2008年12月20日(土)午後
  会場:同志社大学今出川校舎 寧静館
  対象:学生にかぎります。事前申込みが必要になりますので、後日、ゼミの掲示板をご覧ください。定員600名。
  参加費:無料


テーマ:お知らせ - ジャンル:ブログ

  1. 2008/10/17(金) 09:18:04|
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プロフィール

太田 肇

Author:太田 肇
<ホームページ>
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/

<職業>
「組織学者」としておきます。

<主な研究分野>
組織論
とりわけ、「個人を生かす組織・社会」について

<肩書き>
同志社大学 政策学部・大学院総合政策科学研究科教授
経済学博士

<著書>
◆最新刊 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』(日本実業出版社)

『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)
『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社)
『がんばると迷惑な人』(新潮新書)
『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)
『組織を強くする人材活用戦略』(日経文庫)
『表彰制度』(日本表彰研究所との共著 東洋経済新報社)
『社員が「よく辞める」会社は成長する!』(PHPビジネス新書)
『公務員革命』(ちくま新書)
『承認とモチベーション -実証されたその効果-』(同文舘)
『「不良」社員が会社を伸ばす』(東洋経済新報社)
『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)
『認め上手  -人を動かす53の知恵-』(東洋経済新報社)
『認められる力』(朝日新書)
『日本的人事管理論』(中央経済社)
『承認欲求』(東洋経済新報社)
『お金より名誉 のモチベーション論』(東洋経済新報社)
『「外向きサラリーマン」のすすめ』(朝日新聞社)
『認められたい!』(日本経済新聞社)
『「個力」を活かせる組織』日本経済新聞社)
『選別主義を超えて』(中公新書)
『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書)
『個人尊重の組織論』(中公新書)
『ホンネで動かす組織論』(ちくま新書)
『囲い込み症候群』(ちくま新書)
『仕事人(しごとじん)の時代』(新潮社)
『仕事人と組織』(有斐閣)
『日本企業と個人』(白桃書房)
『プロフェッショナルと組織』(同文舘)

<生活信条>
できるだけ人に迷惑をかけないこと。恩を忘れないこと。

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