太田肇 Critical Essays ”個の視点”

同志社大学政策学部教授 (個人尊重の組織論、モチベーション論)  日常生活のなかで疑問に感じたとき即座に書いたものがほとんどです。不完全な内容や思い違いがあるかもしれませんが、お許しください。

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「一円を笑う者は一円に泣く」か?

 コンビニで買い物をしたら財布に1円玉がなかったので100円玉から99円の釣りをもらう羽目になり、財布が膨らんでしまった。いつも細かいお金から先に使う習慣が裏目に出たのだ。かつて、スーパーのレジに箱を置いて、買い物をした客が一円玉を箱に寄付し、必要な人が使えるようにしたことをふと思い出した。このときはPTA関係者が「教育上よくない」と反対し、すぐ廃止になったと記憶している。
 たしかに1円でも大切にする精神は尊いし、日本人の美徳でもある。お金ではないが、農家で育った私は御飯を一粒も残さないよう育てられた。それはちょっとした自慢だが、食べ物を残さず食べることで食べ過ぎたり、体調を崩したりすることもある。
 1円を大切にする教育も、それにこだわりすぎると融通が利かなくなり、スーパーの例のように助け合いの精神が後回しにされるかもしれない。もっと大きな問題は、事の軽重を考える習慣が身につかないことである。いくら1円が尊いといっても、1円では何も買えないことは厳然たる事実である。それを教えることも教育ではなかろうか。
 1円を大切にする教育を受けてた日本人は、会社でも細部にこだわったり完璧主義になったりする。どんな仕事も手抜きせず、完璧にやろうとする精神は尊いかもしれない。一方、欧米にしてもアジアの国々にしても、会社では仕事を重要度に応じて選別したり優先順位をつけたりする。可能な範囲で合理的に働こうとするのだ。
 休暇も取らず長時間残業しても生産性が低い日本企業と、短時間働いて生活をエンジョイしながら生産性もあげている海外企業とを見ると、1円を大切にすることの両面性を教えるのも大切ではないかと考えさせられる。

(2016/1/25)
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  1. 2016/01/25(月) 17:41:58|
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近刊 『個人を幸福にしない日本の組織』 (新潮新書) のご案内

太田肇  『個人を幸福にしない日本の組織』
" The Japanese Organization Which Does Not Makes Individuals Happy ,"

 安倍内閣が掲げる「一億総活躍社会」や、女性の管理職登用、地方創生、大学の国際競争力向上、理不尽な格差の是正。実現のカギは、組織の中に隠れています。
 私たちが暗黙の前提としてきた「組織の常識」を疑い、その病態を暴くとともに大胆な改革を提言。

 第一章 組織はバラバラなくらいがよい
 第二章 年功制が脳を「老化」させる
 第三章 管理強化が不祥事を増やす
 第四章 厳選された人材は伸びない
 第五章 大学入試に抽選を取り入れよ
 第六章 地方分権でトクをするのは誰か?
 第七章 PTAや町内会は自由参加でよい
 むすび 組織と社会の構造改革を!

    新潮新書 2016年2月17日発売740円(税別)
  1. 2016/01/14(木) 22:28:58|
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過剰適応に苦しむ日本企業

 40度に迫るほどの猛暑が続いたこの夏、うちの飼い猫(オス、2歳)の元気がない。冷房の効いた部屋に居座るか、ヒンヤリとした板の間に体をくっつけて動かない。ネコの祖先は中東産で暑さに強いと聞いていただけに、ちょっと意外な気がした。詳しい人に聞いてみると、うちのネコのような長毛種(といっても雑種だが)は寒い土地で飼うように改良されてきたため、暑さには弱いそうだ。とりわけ温暖化による近年の猛暑は、「想定外」だったのだろう。
 動物のなかでも家畜は人間の都合によって品種改良させられている。飼料の無駄を省くため、羽やトサカのないニワトリが生産されているの見たときは衝撃を受けた。
 けれども、それは動物の世界だけではない。人間だって、わが子にオリンピックで金メダルを獲らせたければ、それなりの血筋の人と結婚して子供ができたら幼児期からスポーツの英才教育を受けさせるのが合理的だし、有名大学に入れたければ入試に的を絞って受験秀才を育てるのが近道である。実際、世間では家畜の世界に近いようなことも行われている。
 このように焦点を絞って、そこに資源を投入すると具体的な目的達成には合理的だ。そして競争が激しくなればなるほど、そのような戦略をとらないと勝ち抜けなくなる。ところが、うちのネコのように環境が変わったらお手上げだ(うちのネコも土間で仰向けになり両手を突き出した「お手上げ」ポーズで寝ている 笑)。いわゆる「高学歴プア」も、ある意味では環境変化の犠牲者なのだろう。
 いまこそ私たちは、「適応が適応を妨げる」という言葉をもう一度よく噛みしめるべきである。
 とくにそれを強く感じるのは、日本企業のマネジメントについてである。周知のように日本企業は長く繁栄した工業社会のリーダーであり、模範生だった。品質管理やコスト削減、人材育成などあらゆる面で工業社会における競争力を高めるように特化し、それが大成功を収めたのだ。
 ところがIT化、ソフト化、グローバル化の波が押し寄せ、ポスト工業社会へ移行しつつあるいま、日本企業は成功体験の重さに苦しんでいる。工業社会仕様のモデルが人々の価値観や考え方、文化や道徳にまで深く、広く浸透しているため、変えようと思っても変えられない。変革の方法もまた典型的な工業社会仕様なのだ。その結果、成功体験の縛りがない途上国にもなかなか太刀打ちできないのが現状である。
 成功体験のなかから何を残し、何を捨てるか。どれだけ思いきって新しい絵を描くか。組織と人事の面については、拙著 『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社、本日刊)で事例やエピソードを交えながら述べた。第2弾、第3弾も用意している。

(2015/9/18)
  1. 2015/09/18(金) 10:18:31|
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怠惰な子ども時代を?

 人間は比較する生き物だな、と感じることが多々ある。他人と比較して満足したり嫉んだりするだけではない。過去の自分とも比較するのだ。
 マラソンブームが続くなか、40代、50代になっても各地のマラソン大会をはしごしている人が少なくない。なかには若者顔負けの好記録を出している人もいる。意外なのは、彼らの多くが学生時代には陸上競技はおろか、運動部にも入った経験がないことである。聞いてみると、自分でもこれだけ走れたというのがうれしく、自己記録をつぎつぎに更新するのが楽しいらしい。
 逆に学生時代にスポーツに打ち込んだ人のなかには、中年太りで運動などまったくしないという人が目立つ。
 スポーツだけではない。大人になってやたらモチベーションの高い人が、昔は何事にも怠惰だったという話をよく聞く。
 子どものころに受けたスパルタ式の練習や勉強が運動嫌い、勉強嫌い、仕事嫌いにしてしまったことは事実だろう。しかし、それだけではないような気がする。おそらく人間は過去の自分と競争していて、過去の自分に勝ったときに達成感や成長の実感を味わうのである。
 そう考えたら、子ども時代にトラウマを植えつけないだけでなく、記録の面でも精神的エネルギーについても「余力」「伸びしろ」をあえて残しておくことが必要かもしれない。少年・少女時代に何事にも打ち込めず、充実した生活を送れなかった人は、それをマイナスに考えなくてもよいのである。

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  1. 2015/06/30(火) 09:02:35|
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管理職試験、「受験率10%」の衝撃

 市役所や県庁など多くの自治体では管理職登用試験を取り入れているが、その受験率が驚くほど低い。有資格者のうち受験する人は係長試験で10%、課長試験でも20%程度だという。

 組織を動かす決定権を握っているのは管理職であり、やや大げさに言えば住民の生活や自治体の命運は彼らの意欲と能力にかかっている。したがって、職員のなかでもとくに優秀な人が管理職に就いてもらわなければ困る。ところが実際には、能力の有無はともかく「なりたい」という1割か2割の人のなかからしか管理職が選べないわけだから、考えてみればとても深刻な事態だといえよう。

 管理職になりたくない人が増えたのは、とくに近年の傾向である。昔は「管理職になりたくない」というと好奇の目で見られたものだが、最近はむしろなりたいという人のほうが珍しがられるくらいだ。背景にあるのは、管理職の魅力の低下、すなわち試験を突破して管理職になっても「割に合わない」という損得勘定である。

 管理職手当やさまざまな「役得」の廃止などもその一因だが、聞き取りをしてみると世間のパッシングや責任追及が厳しくなったことが大きな原因であることがわかる。
 そして、これは地方公務員にかぎったことではない。いわゆるキャリア官僚の人気が低下しているし、企業でも出世志向が薄れているといわれる。役所でも会社でも事件や事故、不祥事が起きればマスコミは「弱者の味方」を印象づけるため、このときとばかりにトップを糾弾するし、市民団体も「国民感情」「市民目線」をタテに追及をやめない。うっかりしていたら検察審査会によって強制的に起訴されたり、株主代表訴訟で身ぐるみはがされたりするかもしれない。
 それでもアメリカのようにトップが桁違いの報酬を得ていたら、「地位高ければ責任重し」と割り切れるだろう。ところが日本では、社会的な地位・尊敬を含め、有形無形の報酬は減少する一方である。

 権力の暴走にブレーキを掛け、トップの不正を追及することが大事なのはいうまでもない。ただ、「国民感情」や「市民目線」のなかには単なる妬みや憂さ晴らしのように非合理なものが紛れ込んでいないという保証はないし、めぐりめぐって長期的にどんな結果を招くかまでは考えられていないケースも多い。
 どんな組織や社会にも優れたリーダーは必要であり、優れたリーダーを輩出するには、大多数の人にとってリーダーの地位が魅力的でなければならない。そうでないと、やがてツケは庶民に回ってくる。もはや、強者をたたけばよいという時代ではないことを肝に銘じておきたい。

(2014/7/31)
  1. 2014/07/31(木) 21:12:24|
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従順の罪

 先日、インターネットの相談コーナーに、つぎのような悩みが載っていた。

 相談者は一人のサラリーマン。突然、会社に父が危篤だとの電話が掛かってきた。すぐ帰りたいと上司に伝えると、「君がいないと会議に支障がでる」と上司に反対されたという。
 
 それに対する回答やコメントは、ほとんどが理解のない上司を責める内容のものだった。しかし私は、むしろ相談者のほうに問題があるのではないかと感じた。
 普通に考えたら、親の死に目に会えるかどうかは本人にとって一大事だ。帰ろうと思えば、上司が力尽くででも阻止しないかぎり、一目散に帰ればいい。それが後で問題になれば、そのときに解決すればよい話だ。たとえ処分されたって、後で後悔することはなかろう。
 一方、上司は冷血で非人間的なな人のように見られているが、彼としては自分の立場から反対したまでのことである。にもかかわらず、それを絶対的命令であるかのように受け止められ、あの上司のおかけで親の死に目に会えなかったと一生恨まれでもしたらたまらない。

 この相談者がそうだとは言わないが、上司の意向を絶対視する人は、たとえ社会的に許されないことでも、平気で行ってしまう危険性がある。「アイヒマン実験」でも明らかになったように、人間は権威のもとでは善悪を判断する力を失ってしまうものだからである。大企業や役所で繰り返される事件、不祥事、それに学校や職場のいじめも、そうした関係性のなかで発生したケースが多い。

 無批判な従順さは必ずしも美徳でないばかりか、とても危険で無責任なことだと自覚すべきである。この相談事例で問題なのは理解のない上司よりも相談者自身、あるいは彼の判断力と行動力を麻痺させた職場や社会の風土であるといえよう。

(2014/7/29)
  1. 2014/07/29(火) 14:28:43|
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やる気を出させるには

 やる気を出させるにはどうすればいいのか?
 シンプルですが、とても難しいテーマです。永遠のテーマだといってしまえばそれまでですが、そうは思いたくありません。

 私は科学研究費補助金や企業からの委託研究費などを得ながら、幼稚園、学校、学習塾、企業、役所、病院などで実証研究を続けています。

 これまでにわかったことも、きわめてシンプルです。
 やる気を引き出すのに大切なのは、「やればできる」と本気で思わせることと、「やったら報われる」とわからせることです。
 もちろんそれにはいろいろな仕掛けや仕組みが必要で、それについては、拙著『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)や『承認とモチベーション』(同文舘)などで詳しく述べています。

 ただ、社会や組織がなぜ、その自明な原理を受け入れ、その方向へ変わろうとしないのか? 最近はそのことにとても興味を抱き、考え続けています。みなさんも考えてみてください。

(2014/5/10)
  1. 2014/05/10(土) 10:22:00|
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文章量と思考のスケール

 小説ではないが、読み始めるととても面白い。引き込まれて一気にほんの半分くらいまで読んでしまった。後半はどんなことが書かれているだろうか? それを楽しみにしながら読んでいると、途中から急にくり返しや新鮮味のない話、冗長な文章に変わり、まったくつまらなくなった。まるで別人が書いた文章のようだ。こんな本にしばしば出合う。原因は単純。書こうとしている内容が本一冊分に足りなかったからだ。もっとも、これはある意味において誠実な著者で、なかには乏しい内容を無理矢理引き延ばして一冊の本を書きあげる人もいる。
 ボリュームがあり、しかも体系や展開のある本を一冊書くにはそれなりの構想や思考のスケールが必要になる。そのため短文は得意だが長文は書けないという人も少なくない。
 つまり、書く文章の分量と思考のスケールとはある程度比例しているのではないかということである。ただ、それは本人の能力の問題というより、思考の習慣によるところが大きいように思える。長い文章を書き慣れると自然に思考の体系もふくらむし、短い文章ばかり書いていると無意識のうちに思考のスケールも小さくなるようだ。
 ツイッターが普及してから若い人の文章がうまくなった。しかし140字で考える人が増えているように感じる。そうだとしたら、ツイッターや携帯メールは、思考という人間にとって最も重要な問題に悪影響を及ぼしている可能性がある。憂慮すべき問題である。

(2013/10/1)
  1. 2013/10/01(火) 22:07:03|
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功績の継承を許さない選挙というシステム

 私は企業でも役所でも、興味深い制度を取り入れているところがあればどこへでも飛んでいって取材する。自分でいうのもなんだが、フットワークは軽いほうだ。
 ところが最近、それがなかなかうまくいかない。とくに役所が問題だ。情報を得て、いざ訪ねてみようと思い、依頼の電話をすると決まったように「その制度、今はもうありません」という答えが返ってくる。それも一度や二度ではなく、ことごとくである。何か不都合があったのかと訊いても、とくに納得できるような理由は聞かれない。皮肉なもので、ユニークな制度や注目を集めた制度ほど消滅するのも早いようだ。

 原因ははっきりしている。選挙というシステムが既存の制度を葬り去るのである。新しく当選した首長にとって、前首長の「遺産」など何の価値もない。それどころか、とても目障りなものなのだろう。しかもユニークで世間から注目される制度ほど、自分にとっては邪魔である。早く前首長の色を消して、自分の色を出したい。しかも、それができる立場にある以上、そうするのは当たり前かもしれない。
 生物学的にとらえるなら、動物のオスがメスと一緒になるとき、前のオスがつくった子を殺してしまうのと通じるものがあるかもしれない。とにかく前の遺伝子を消し去り、自分の遺伝子を残そうとするのである。
 しかし、いずれにしてもそのような行動は住民の利益とは無関係だ。いや、制度改革が政治的パフォーマンスの道具に使われたら住民にとって迷惑このうえない。

 もっとも、素朴な民主主義を信奉する人のなかには、長期的な視点からそれを容認する人がいるかもしれない。動物が自然淘汰で進化してきたように、民主主義もそうやって進化するのだと。
 はたして、そうだろうか? 私は楽観的にはなれない。
 第1に、4年に一度という選挙制度が適応を妨げる。たとえ制度「改悪」が少々住民の反発を招いても、4年たったら忘れられる。4年後の選挙には、前首長の実績を引き継いだことより、自分で制度をつくったという実績のほうがプラスになる、というくらいの計算はしているはずだ。
 第2に、民主主義の根幹にかかわる問題だが、選挙で選ばれた人=適者かという問題である。たしかに動物の闘いなら勝者=適者といえるだろう。同じように民間企業なら、株価や利益といった比較的客観性の高い基準がある。だから民間企業なら、新しい経営者は前経営者のつくった制度でも良い制度は残しておいたほうがトクだ。したがって優れた制度は生き残る可能性が高い。それに対し、行政の場合には残念ながら有権者の判断に役立つ客観的な基準がない。しかも、専門的で複雑な制度になるほど一般の有権者には評価が難しくなる。よく言われるように、民主主義は国民(住民)のレベル以上には発展しないのである。

 必要な対策ははっきりしている。有権者が正しく判断できるように、第三者が制度を評価してわかりやすく示すしかない。たとえば、選挙前に第三者機関が立候補予定者に対して「○○制度は80点と評価されています。この制度を残すのですか、変えるのですか? 変えるならどんな制度を取り入れるつもりですか?」といようにな公開質問をしてはどうだろう。
 民主主義の弱点を補う工夫をしない限り、賽の河原の石積みは永遠に続く。
  1. 2013/08/26(月) 09:18:52|
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夜郎自大

 今年の夏もまた高校野球で盛り上がった。その立役者の一人が花巻東高校の千葉君だ。ファウルで粘って出塁する彼のプレースタイルはユニークで、試合展開から離れたところでも注目された。ところが準々決勝の試合終了後、いきなり審判から「スイングではないのでスリーバント失敗でアウトにする」と宣告された。彼が動揺したのはいうまでもなく、次の試合では活躍できないまま甲子園を去った。

 私が見る限り、あれをバントとはいえない。あれでスイングしていないというなら、流し打ちはすべてアウトになる。しかも、それまで認めておきながら、準決勝を前に突然ダメだというのはフェアでない。
 おそらく審判は、彼が想定外のプレーでトリックスター的な活躍をするのを「大人」として放置できなかったのだろう。背後にあるのは、「高校生らしさ」を自分たちが守る、という行き過ぎた自負心である。

 ふと、一昔ほど前に登場した「正義の味方」を思い出した。「額に汗して働く人々・・・が憤慨するような事案を万難を排しても摘発したい」と唱え、ライブドアの堀江氏をはじめ「一攫千金」をもくろむ若手起業家たちを次々に逮捕した当時の東京地検特捜部長である。

 両者とも掲げている理想はまともに見えるが、そこにはとても危ういものがある。百歩譲って高校野球には「高校生らしさ」が求められるとしても、それを具体的に定義するのは高野連などの組織、あるいは世論である。少なくとも審判にその権限が委ねられているわけではなかろう。特捜部長の発言も同様で、どのような社会が望ましいかは彼が決めることではない。越権行為、夜郎自大も甚だしい。

 審判にしても特捜部長にしても大きな権限、権力を握っている。しかし、その権力行使に自分の理想像や社会観で裁量を加えることはけっして許されないはずだ。権限を委ねられているものは、どこまでも謙抑的であらねばならない。
  1. 2013/08/23(金) 19:36:19|
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「グローバル人材育成」のパラドックス

 「自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)は4日、世界で活躍できる人材を育成する対策を盛り込んだ提言をまとめた」(今朝の日本経済新聞)という。
 ここ10年、20年の間、「グローバルに通用する人材を育てなければならない」と言われ続けてきた。そして語学力やプレゼン能力の向上が課題とされてきた。

 しかし、それがいちばんの課題だろうか?
 相手の立場に立って、素朴に考えてみてほしい。ペラペラとしゃべりかけてきたり、仲間に入りたがったりするけれど魅力のない人や付き合う価値のない人ほど迷惑なものはない。そもそもグローバルな人材を育てようという発想そのものが、態度を受け身にし、結果としてグローバルに通用しない人間ばかりつくってしまう。
 実際、グローバルに活躍している人をみると、自分の夢や目標を持ち、あるいは使命感を抱きながら生きていて、それが結果的に日本という国境を越えていた、というだけだ。

 ほんとうの意味でグローバルな人材を育てようとするなら、大きな夢や志を抱き、それを自分の意思で実現できるような環境をつくらなければならない。ところが現状をみると、社会も組織も、評価の厳格化だの細かい制度づくりだの、それに逆行することばかりやっているようにみえる。「権限委譲」や「裁量拡大」なども、わが国では幹部クラスまでで、末端の人の権限、裁量範囲はとても狭い。そして、自分の努力や能力で何ができる、何が獲得できるかがはっきりしない。

 子育てに熱心な親が、あれこれ干渉し、枠をつくってしまって伸びる力を奪ってしまうのと同じだ。少し乱暴な言い方をするなら、グローバル人材を育てるのにいま必要なのは、上に立つ者が「邪魔をしない」ことではないか。
 これは「グローバル人材の育成」にかぎった話ではない。いちばん大切なものは何かをしっかりと見きわめるべきである。

(2013/4/5)
  1. 2013/04/05(金) 10:59:36|
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「水清ければ魚棲まず」

 今日の読売新聞によると、瀬戸内海の水がきれいになったため魚がとれなくなり、漁師たちは悲鳴をあげているそうだ。
 「水清ければ魚棲まず」。これは、今の日本の組織や社会にも当てはまるのではないか。

 昨日は、プロ級の釣りの腕前を持つ警官が、雑誌に投稿して原稿料を受け取っていたとして処分され、退職したことが報じられていた。また先日は大阪の公務員が仕事の帰りに10分だけ喫茶店に入り、処分を科されていた。公務員だけでなく、一般のサラリーマンも含めて管理がいっそう厳しくなっている。

 かつて出世する公務員は「清濁併せのむ」タイプだといわれたが、今は濁った水を一滴でも飲んだらアウトだ。また会社でも役所でも、ちょっと油断したらセクハラ、パワハラ扱いされるので、部下をもつ人たちはたいへんデリケートになっている。
 政治家も同じで、能力の有無、業績のあるなしにかかわらず、ちょっとでも落ち度があると徹底的にバッシングされ、追放される。
 かくして清廉潔白だけが売り物の人間が生き残り、組織や社会の舵取りを委ねられるようになる。

 「それがなんで悪い」と言われるかも知れない。たしかに清く正しいに越したことはない。しかし、はたしてそれだけで世の中が回るだろうか? そして、人々にとって居心地がよく、幸せだろうか?
 気づかないだけで、汚れ役を引き受けたり批判のリスクをとったりする人がいたために組織も社会も回っていたという面がある。規則を杓子定規に当てはめ、模範的な行為をするだけでは立ちゆかなくなる例は至る所に存在する。清廉潔白をウリにする人たちは、汚れ役を引き受ける人がいるために自分が清廉潔白でいられるということも自覚したほうがよい。

 こういうと悪事を奨励しているように受け取られるかも知れないが、もちろんそうではない。
 どこまでもクリーンであることを要求して極端な減点評価になると、組織や社会の活力は低下し、人々のやる気もやりがいも犠牲になりかねない、といいたいのである。

(2012/8/26)
  1. 2012/08/26(日) 13:07:53|
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「最適基準」と「満足基準」

 学者や識者の中には、マスコミから取材を受けたとき、記事内容について確認を求めたり、細かいところにこだわって修正を要求したりする人がいる。記者の立場からすると、よほど「余人をもって代え難い」人でないかぎり、面倒なのでもうあの人に取材するのはやめようと思うだろう。

 講師をを招聘するときや専門家を採用するときも、「面倒な」人は敬遠される。
 本人は自分の存在を過大評価し、あるいは「実力主義」のタテマエを信じてしまいがちだが、本当のところは「代わりはいくらでもいる」のだ。まして企業や役所の採用人事などになると、「余人をもって代え難い」新人などいるはずがない。

 H・A・サイモンは意思決定のメカニズムについて、最適の選択肢を探す「最適基準」と、一定の水準を満たしていたらよしとする「満足基準」に分け、マネジャーは通常「満足基準」で意思決定していると述べた。

 取材をするときも、講師を招くときも、また人を採用するときも、人選する側にとってだれを選ぶかは正直なところそれほど重大な関心事ではない。たいていは「満足基準」で選んでいるのである(いっぽう本人は丁重に扱われると「最適基準」で選ばれているかのように勘違いしてしまう)。
 人選する側にとって、人材の優劣の差よりも、煩わしさの差のほうが実は大きいのだ。だから、「面倒な人はやめておこう」となる。

 それを考えたら受ける側は、それとなく「私は面倒をかけませんよ」とアピールするのが意外と有効な戦略かもしれない。まじめな話。
 
 (2012/7/3)

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  1. 2012/07/03(火) 18:40:36|
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虚栄心、自己顕示欲は衰えず

 ビジネスマンや官僚として社会的地位を築いた人のなかには、エッセイや講演で故事、歴史、文化などの教養をひけらかす人がいる。わざと難解なことばを使う人もいる。こちらとしては色眼鏡で見てはいないつもりだが、どこか違和感がある。原因は、エッセイや講演のテーマを語るうえで必要のない話や言葉だからである。必要があってそうした知識が自然にでてくるのか、それを使うことが自己目的化しているのかが、プロフェッショナルとディレッタントとの違いだ。
 必要のない話や語句をとってつけるだけならまだしも、教養をひけらかすためにわざわざ主張の内容までゆがめてしまうこともある。そうなったら、もう滑稽ではすまない。

 なぜ、それほど「教養」をひけらかしたいのか?
 それはおそらく文化人、知識人へのあこがれである。すでに獲得している専門的な知識や能力への評価だけでは満足できず、文化人、知識人という、より人格的な性格の強い評価を得たいからだろう。
 しかし上記のように、木に竹を接いだような話になっては、かえって人間の底の浅さを露呈してしまう。
 
 ところで、日本経済新聞に「交遊抄」という欄があるのをご存じだろうか?
 各界で活躍し、それなりの地位を得ている人が友人、知人との交友関係を自ら紹介するコーナーだ。読んでいると、特定の型にはまった記述がとても多いことに気がつく。
 たとえば、こんなふうだ。

 「私には気のおけない二人の親友がいる。一人は○○君、もう一人は△△君で、ともに東大の□□ゼミで学んだ。○○君は絵に描いたような秀才で、学部を首席で卒業し、××省に入った。いっぽう△△君はリーダーシップに優れ、・・部のキャプテンとしてチームを対抗戦の優勝に導いた。彼らと対照的にずぼらな私は、大学へはめったに顔を出さずアルバイトや映画館通いに精を出していた。あれから三十年たった今、○○君は××省の局長、△△君は国会議員として、それぞれの才能をいかんなく発揮しながら難局に立ち向かっている。落ちこぼれだった私も幸運に恵まれ、なんとか経営者としての役目を果たしている。お互いに多忙で卒業以来、二、三度しか会っていないが、いずれ時間に余裕ができたら一緒にワイングラスでも傾けながら人生を語りたいものだ。」

 ほんとうにこの二人が親友かどうかわからない。また、社会に出てから親しい友人ができなかったことを白状しているようなものだ。めったに会わないのに何が「交遊抄」かというケチもつけられよう。しかし、そんなことは本人にとってどうでもよいのだ。自分が東大に行っていたこと、勉強しなくても元々優秀なので今の地位に就いていること、「偉い」友人がいることをわかってもらえさえすればよいのである。
 「交遊抄」という欄は、人間の性(さが)をあぶり出してくれる貴重なコーナーだ。

 功成り名を遂げても、人間の虚栄心や自己顕示欲は衰えないものである。ずっと昔に、「かぎりないもの、それが欲望-」という歌があったが、虚栄心や自己顕示欲にもそれはもろに当てはまる。人間らしくてよいという見方もできようが、社会的地位や影響力のある人のことだけに、手段が目的化して主張をゆがめるようではちょっと不安になる。

(2012/1/24)
  1. 2012/01/24(火) 22:53:43|
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「絆」が「くびき」に変わるとき

 今年の漢字は、大方の予想どおり「絆」だった。
 国民の間で自然に支持されたというより、マスコミ主導で崇められるようになった漢字というようにも思えるが。

 いずれにしても、老若男女関係なく手を差しのべ、支え合う被災地の人々や、離れていても被災者のために何か力になりたいという思いを寄せる人たちの優しさと行動力には心を打たれる。そこには純粋な「絆」の存在を感じ、胸が熱くなる。そして、日本人であることを誇りに思う。

 しかし一方で、「絆」が叫ばれるようになるとともに、そこに危険な臭いを感じとった人も多いのではなかろうか。その象徴が、同時に流行した「自粛」「謹慎」という言葉だ。震災後は、卒業式、送別会、花見、入学式など諸行事の「自粛」が相次いだ。ちょっとハメを外したり、ぜいたくをしたりすると、「不謹慎」だと非難された。
 とくにインターネット上のバッシングなどをみていると、パーマネントをかけただけで「非国民」呼ばわりされた戦時中と何も変わっていないのではないかという印象をもった。隣近所に張りめぐらされた監視の目がネット上に移っただけである。

 社会は個人の自律と連帯との微妙なバランスの上に成り立っている。ただ西洋と比較すると日本社会はもともと連帯の方にかなり軸が傾いているし、傾くのを押し止める装置がない。そのため、連帯は容易に束縛へと移行する。
 「自粛」にしても「謹慎」にしても、本来は自分の意思で行うものだ。ところが日本では、他人にそれを押しつけようとする。「自粛」ではなく「他粛」だ。あるいは組織や団体のトップが、その立場上「自粛」や「謹慎」を口にすると、他のメンバーはそれに従わざるをえなくなる。

 そして、そもそも被災者、被災地を慮ったはずの「自粛」や「謹慎」が、ほんとうに被災者、被災地のためになっているかどうか、はなはだ疑問だ。その原点を離れて束縛し合い、たたき合う現象が起きるところに日本社会の病根がある。

 せっかく「絆」という言葉が膾炙されたのだから、その言葉をとおして日本社会の光と影をもう一度みつめ直してもよいのではなかろうか。
 
(2011/12/14)
  1. 2011/12/14(水) 09:14:04|
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「成果主義」と競争

 「あなたは成果主義に反対だというが、競争をなくしたら悪平等におちいるではないか」と批判されることがある。
 誤解しないでほしい。私は「成果主義」には反対だが、競争には反対していない。

 それは、「成果主義」イコール競争原理ではないからである。
 私の立場は、いわゆる個人主義、すなわち究極の価値は個人の利益、幸せにあると考える。ただ個人主義といっても孤立した個人を理想とするわけではない。人間には仲間同士の交流や共感を求める欲求があるし、個人を守り、生かすために連帯も必要とする。ただ、個と全体とが対立したとき、できるかぎり個の方を優先するというスタンスをとる。

 個を尊重するために強力な全体が必要だというホッブスのような考え方もある。しかし、全体と個は緊密にリンクしているわけではない。たとえていうと、ワイヤーではなく弛んだチェーンのような関係にあると考えている。「公共の福祉」による制約なども、無制限に認めるべきではないと思う。

 厄介なことに、人間には他人より秀でたいとか、競争に勝ちたいといった欲望、あるいは本能のようなものがある。社会主義が失敗したのは、それを軽視したためだろう。したがって社会の中ではもちろん、生活の糧を得る場であると同時に生きがいの場である組織のなかにおいても、競争をなくすことはできない。競争はまた、それが組織や社会の活力にもつながる。だから私は競争を否定しない。
 もっとも、弱肉強食の競争は組織や社会を破壊するのみならず、個人の利益も脅かす。したがって実質的な機会均等が保証されなければならないし、富の再分配やセーフティネットも必要だ。

 では、なぜ「成果主義」に賛成できないのか?
 それは、「成果主義」が組織の論理に基づいているからである。世にいう「成果主義」は、組織という閉ざされたシステムのなかで地位、金銭、名誉を奪いあう、「ゼロサム」原理に支配されている。しかも、その配分は上司の評価にもとづいて行われる。したがって、そのプロセスは全体主義的である。

 だから私は、競争は肯定するが「成果主義」には賛成できないのである。
 「成果主義」ではない競争。それは一種の市場メカニズムである。ただ、必ずしも金銭を媒介にしない。たとえば市場や顧客、住民の中に入っていって活躍し、承認や名誉を獲得するのがそれである。承認や名誉が報酬に反映されるようにすれば、かぎ括弧を外したほんとうの意味での成果主義になる。それなら私も賛成する。

(2011/12/7)
  1. 2011/12/07(水) 22:14:30|
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公務員の"やる気"を左右するもの

 『公務員革命』に書けなかったエピソードを一つ紹介しよう。

 東京近郊の市に住むYさんが、こんな話を聞かせてくれた。

 Yさんのお母さんが市役所の窓口を訪れたときのことである。そこにいた職員に手続きのしかたを尋ねたところ、黙ったまま身振り手振りで教えてくれた。お母さんはてっきり、その職員は言葉が不自由なのだと思い、障害者を雇用している役所に感心したそうだ。ところが、用事が済んでたまたまその職員に目をやると、彼は仲間とふつうに会話しているではないか。お母さんがそれを見てあきれたのは言うまでもない。

 その話を母親から聞かされたYさんは、市の職員に対して良いイメージをもっていなかった。
 ところが、しばらくたってそのイメージを一変させる出来事が起きた。
 Yさんは自宅でぎっくり腰に襲われ、一歩も歩けなくなった。やむなく救急車の世話になることになった。すると、やってきた救急隊のスタッフたちはYさんの容態に気をつかいながら、とても迅速に救護してくれた。至れり尽くせりの行き届いた処置だったという。
 Yさんは、その仕事ぶりに感激すると同時に、これが同じ市の職員なのかと信じられない気持ちになったという。

 同じ公務員でも、やる気のある職員とそうでない職員はそれほど違うのか。そう受け止める人が多いだろう。
 しかし、かりに押し黙ったまま応対した窓口の職員と、水際だった処置をした救急隊員の立場が入れ替わったら、果たして今と同じ仕事ぶりをみせるだろうか? 持ち場が替わって長年その仕事を続けたら、態度が入れ替わってしまうかもしれない。
 救急隊員は仕事に使命感をもつことができ、常に市民から感謝される。だからますますモチベーションは高まる。いっぽう窓口の職員は、仕事が単調なうえ、市民からは良い仕事をして感謝されるより、手際の悪さに不満を漏らされることのほうが多いのではないか。つまり救急隊員は「表の承認」を得る機会が多いのに対し、窓口の職員は「裏の承認」が中心である。

 両者の対照的な働きぶりをみると、公務員の"やる気"のあるなしは、必ずしも本人の資質によるものではないし、成果主義によるものでもないことがわかる。そして、今後の公務員改革もおのずとその方向性がみえてくる。

(2011/11/3)

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  1. 2011/11/03(木) 15:35:13|
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「学業第一」 特待生は悪か?

 夏の高校野球選手権の全出場校が昨日決まった。それと連動して今日の日本経済新聞では、高校野球の特待生問題が取りあげられていた。
 特待生については、それを肯定する声より、批判的な声のほうが大きい。たしかに、いろいろな問題があることは事実だ。しかし私は、特待生をなくすべきだという声が大きいことのほうに不安を覚える。

 特待生を否定する人たちは「学業第一」を錦の御旗として掲げる。たしかに高等学校は学業のためにつくられたのであって、プロスポーツ選手を育てるためにつくられたのではない。しかしスポーツ少年の中には、勉強は苦手だがスポーツなら負けないという子や、スポーツで身を立てたいと思っている子もたくさんいるはずだ。もちろんスポーツに限らず、芸術や各種技能でも同じである。
 そういう子たちに能力を伸ばす機会をぞんぶんに与えてもいいではないか。こう言うと、「それなら学校以外の場で伸ばせばいい」という反論が返ってきそうだ。しかし、わが国のどこにそのような場があるのか?プロ野球選手やJリーグの選手に、高校以外で才能を伸ばした者がどれだけいるか?

 ところで公立の小学校や中学校では、水泳が得意な子、足の速い子、一輪車に上手に乗る子、セミ採りが得意な子は教師や同級生から拍手が送られ、クラスの人気者になる。しかし勉強ができる子、有名私学に合格した子には教師も同級生も冷たい。それは、勉強ができる、有名私学に入ることのほうが重要だとみんなわかっているからである。
 さらにその先には、より偏差値の高い大学に入り、一流企業に入社、そしてより高い管理職へ「出世」していくという王道がある。「そんな出世主義者は昔のことで、いまは少ない」と言われるかもしれない。しかし、たとえそうであっても、それは目指す人が減っただけで、このような一元的価値観に基づく序列意識は崩れていない。だから伝統的な大企業のエリートや官僚に対する風当たりも強いのだ。風当たりの強さは、ねたみやルサンチマンの強さの裏返しだ。

 私はこの一元的な序列社会がわが国の最大の弱点だと思っている。「出る杭を打つ」風土も、足の引っぱり合いもそこからきている(ちなみに私はそれを「裏承認社会」と呼んでいる)。政治、経済、学術などで日本の地位、存在感が低下し続けているのも、このような序列社会が新しい環境に適応できなくなっているからだろう。

 このように考えたら、「学業第一」というタテマエにこだわるより、多少の不都合はあっても個人個人が得意な分野で才能をどんどん伸ばし活躍できるようにサポートしたほうがよい。そうすると、いろいろなところで既存の体系や秩序が維持できなくなるかもしれない。しかし、その乱雑さの中でこそほんとうに個人が生かされ、組織も社会も活力を取り戻してくるに違いない。体系や秩序を優先するのは本末転倒だろう。
 
(2011/8/2)
  1. 2011/08/02(火) 09:33:51|
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叱られ上手

 会社の社長、学界の大御所、名の通ったジャーナリストが講演後にフロアから思わぬ批判や反論を浴び、まるで子どものように激高したり狼狽したりする姿をしばしば目にする。そんなハプニングを防ぐためか、主催者側は講演後の質疑や意見交換の時間を設けないケースが多い。

 ある程度の地位に就くと、周りには提灯持ちばかりが集まり、「裸の王様」になっていく。きついことを言ってくれるのは、家族かバーのホステスくらいのものだ。だから講演先でも、「すばらしかった」「感動した」という声が返ってくるものと思いこんでいる。反論や批判への免疫が低下しているのである。

 最近は家庭でも、学校や会社でもあまり叱らなくなった。褒めることばかりが強調される。叱ったら嫌われるのではないか、パワハラやアカハラといわれるのではないか、という思いが先行するからだ。その結果、叱られるのに慣れていない若者が増えている。ちょっと叱っただけで自信喪失してしまったり、叱った相手を恨んだりする。
  
 たしかに褒められると心地よいが、叱られると認知的不協和が起きるので不快になる。メンツをつぶされることもある。そのため、耳障りのよい言葉ばかりを求めたがる。しかし、いくら気をつけていても自分のことは見えないものだ。叱られ、注意されて初めて気がつき、そこからまた成長する。逆に言うと、叱られなくなったときにその人の成長は止まるのだ。

 志の高い人は目下の人がものを言いやすい雰囲気をつくり、諫言を成長の糧にしている。また「叱り上手」な人は、相手の受け入れ能力を見極めながら上手に叱ったり、ふだんからときどき叱って免疫をつけたりしている。

 褒め上手、褒められ上手になるのもたいせつだが、叱り上手、叱られ上手になるのはもっと大切かもしれない。

(2011/7/24)
  1. 2011/07/24(日) 09:36:20|
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「部分最適」と「全体最適」

 「どんな災害に遭っても絶対に壊れない家を造ってほしい」。そんな依頼をしてくる人が、世の中にはある一定の割合で存在すると建設会社の人が話していた。

 ある知人は、交通事故に遭ってもけがをしないようにと、燃費の悪い大型車に乗っている。その一方で彼は、いつもバイクを飛ばしながら通勤する。「バイクでけがをする確率のほうが何十倍も高いぞ」と忠告しても耳を貸さない。車が川に転落したときシートベルトを締めていたので脱出できなかったというニュースを見て、それ以来シートベルトは危険なので締めないという人もいた。

 私も人のことは言えない。メタボのイエロー・カードを突きつけられてから、コーヒーに砂糖を入れるのを我慢しているが、食後には甘い物が欠かせないし、酒量は減らせない。
 
 一つのことを考え続けるうちに、全体の中で占めるそのことのウエイトや位置づけを忘れてしまうのはよくあることだ。

 さまざまな安全対策にしても、絶対に安全ということはありえない。結局は安全確率をどこまで上げるかという話になる。その際には、万が一の時にどれだけの被害が出るか、そしてその危険性が他のリスクと比べてどうなのかといった全体的視点がやはり不可欠だろう。

(2011/7/11)
  1. 2011/07/11(月) 12:59:09|
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いじめの芽

 先日、「いじめをなくすにはどうすればよいか」という質問を受けた。学校や職場だけでなく、小は家庭から大は国全体にまで発生している問題だけに、真剣に対策を考えなければならない。

 私は、いじめが起きる最大の原因は「閉鎖社会」にあると考えている。
 第一に、閉ざされた集団のなかでは、悪口、誹謗、中傷が周囲に伝わると、大多数に共有されてしまう。クラスでも職場でも、みんながそれを知っているとなると、いじめられた人は居場所がなくなる。
 第二に、閉鎖的な集団ではメンバーが長期間固定されるため、そこには非公式集団のリーダーが生まれ、それを中心に序列が形成される。すると、リーダーに従わない者や序列を乱す者はいじめられる。

 集団が外部に開かれていたら、それは防げる。
 たとえば小中学校でのいじめは深刻だが、高校、大学にいくと急速に減る。高校に入ると生徒の関心はクラスや学校の内側より、受験など外部に向く。学校のほか、予備校に通う者も増えてくる。そうなると、たとえ誹謗・中傷が発信されても、相手や周囲の者がそれに関心を抱かない。また、個々人が複数の集団に対して多元的に帰属するようになれば、誹謗・中傷も限定された範囲にしか共有されない。しかも義務教育ではないので、いじめに耐えられなければ辞めるという最終手段も残されている。大学に行けばクラスそのものがなく、固定的な集団が形成されないので、いっそういじめは起きにくい。
 ところが大学院に進学すると、そこでは再び閉鎖集団になる。「研究室」でのいじめやパワハラがしばしば報じられるのはそのためだ。

 したがって、いじめを防ぐには、集団・社会を開かれたものにしなければならない。学校ではクラス替えをもっと頻繁に行い、転校や生徒の交流も進めたほうがいい。部活ももっとオープンでだれでも参加できるようにし、複数の部への掛け持ちも奨励する。職場では正社員以外に派遣や臨時、アルバイトを増やすなど「ダイバーシティ」化を推進する。境界が不明なネットワーク型組織を取り入れるのもよい。家庭でも夫や妻、子の関心を外に向けさせれば、DVもなくなるだろう。

 このように考えたら、「クラスの団結」「チーム一丸」「社員の一体化」「日本は一つ」といったキャッチフレーズの背後に、実は危険な「いじめの芽」が潜んでいることがわかる。団結や一体化には良い面ばかりではなく、危険な面もあることを多くの人に認識してもらいたい。

(2011/6/20)
  1. 2011/06/20(月) 09:39:24|
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公務員改革と嫉妬心

 市長選挙にA、B二人の候補が立候補したとしよう。A候補は「市民の所得は上げられないが、職員の給与を5%カットする」、B候補は「市民の所得を5%上げる代わりに、職員の給与は2倍に上げる」とそれぞれ公約に掲げた。
 どちらが当選するだろうか?
 住民の生活が極端に苦しければともかく、普通だったらA候補が当選するのではないか。
 合理的に考えれば、B候補の公約のように市民生活をよくしてもらった方がよいに決まっている。しかし、多くの市民にとっては職員の給与が2倍になり、贅沢な生活をするのを見せつけられるくらいなら、自分の生活が多少苦しいのをがまんするほうがマシなのだ。とくに市町村のような基礎自治体だと、近隣、親戚、同級生など身近なところに職員がいる。だから嫉妬心を抑えることは難しい。
 「貧しきを憂えずして、均しからざるを憂える」というが、これは公務員改革においてもやっかいな問題だ。職員に能率を上げてもらうためには待遇をよくしなければならないが、待遇をよくすると住民(国民)が反発するというジレンマがあるからだ。その段階で、合理的な議論は行き詰まる。結局、仕事の能率やサービスの低下には目をつぶっても、住民の嫉妬を解消するため、「給与の2割カット」といった非合理な選択をしなければならなくなる。
 表面化しにくいだけで、公務員改革にかぎらず、人間の嫉妬心が改革や施策の障害になっているケースが実は多い。嫉妬に対していかに対処するか。「嫉妬学」といった研究があってもよさそうだ。

(2011/6/16)
  1. 2011/06/16(木) 14:09:02|
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五月病?の日本

 毎年、ゴールデンウィークを境に学生の行動が大きく変化する。新入生でごった返していた食堂もキャンパスもゆったりとし、教室には空席が目立つようになる。そして学生たちは気の合った仲良しグループをつくり、集団で行動するようになる。集団に入れない学生は、自ずと孤立し、なかには登校しない者もでてくる。
 ただ、「仲良し」グループといっても、ほんとうに仲がよいとはかぎらず、とりあえず属していたら安心できる集団といった程度の意味しか持たない。こうした集団と孤立者の存在そのものを「五月病」の中に含めることもできそうだ。

 しかし、「五月病」を大学の新入生だけの問題としてとらえてよいものだろうか?
 それは目標を失った社会が陥る現象のように思える。
 中国や韓国といった発展著しい社会を見ていると、業績をあげる企業や活躍する人はたたえられ、社会はそれを支援する。人々の関心は外を向いているので、他人の揚げ足をとったり重箱の隅をつついたりすることは少ない。というより、そんなことをする人が冷たい目で見られる。
 一方、発展や成長という目標が後景に退いているわが国では、人々の関心が内側を向く。受験という目標を失った学生たちと同じである。
 先月のブログにも書いたとおり、いくら業績をあげて社会に貢献していても、ちょっとしたミスを犯せばアウトだ。空気を読まない言動や「不謹慎」な行為、多数派に同調しない人たちは、正義の名を借りた嫉妬やルサンチマンの餌食になる。
 震災という大きな国難を抱えた今、こんなことを続けていれば、経済も社会も右肩下がりの勾配がいっそう急になるに違いない。
 
 どうすればそこから脱却できるか?
 ヨーロッパの国々を見てもわかるように、成熟社会で衰退にブレーキをかけるのは「健全な個人主義」だろう。国民の連帯も、健全な個人主義があってこそ可能になる。それがないところでの「連帯」や「絆」は、単なるもたれ合いやくびきになってしまう。健全な個人主義と「有機的連帯」(デュルケーム)こそが復活への扉を開くと私は信じている。

(2011/5/11)
  1. 2011/05/11(水) 10:37:35|
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震災対応にみた<裏承認社会>の強みと弱み

 先週から今週にかけて海外の要人たちに会う機会があった。そのたびに聞かされたのは、震災に対するお見舞いの言葉に加えられたつぎのような感想である。それは、被災者の秩序正しい行動と救援や支援に当たった人たちの努力と勤勉さ、対照的なリーダーたちの対応のまずさである。
 
 これは彼らの情報源が、日本国内からマスコミによって伝えられる二次的情報にかぎられているためかもしれない。実際、わが国のマスコミもおおむねそのような論調だし、世論も同様の評価だ。

 今朝の日本経済新聞「経済教室」で教育学者の苅谷さんも、現場を支える人たちの献身ぶりと指導的立場に立つ人々の対応のまずさ(「底」の浅さ)を指摘している。苅谷さんによれば、それは初中等教育への称賛と大学教育の凡庸さという国際的な評価とも符合する。つまり、大衆教育は健全だが、リーダーを育てる大学の教育機能が劣化しているというわけだ。

 現場の人たちの秩序正しい行動や献身ぶりと、リーダー層の「底」の浅さ。こうした評価には私も賛同する。ただ、それをもたらした原因については、ちょっと違った見方もできるのではないか。

 私はこれまで、日本の社会・組織では自発的な行動や個性の発揮、秀でた能力や業績をたたえる「表の承認」より、実際は秩序や序列を守り、和を乱さないことの方を求める「裏の承認」が支配しているとたびたび指摘してきた(拙著『承認欲求』、『お金より名誉のモチベーション論』など)。

 今回の震災後における日本人の言動にも、それがはっきりと表れている。非常時でも礼儀をわきまえ、秩序正しく行動する姿は<裏承認社会>の「光」の部分である。それを評価し、たたえるべきなのは当然だろう。
 しかし一方では、リーダーたちがマスコミや世間の批判を恐れて及び腰になり、信念や自らの判断に基づいて果敢に行動することができなかった。そもそも、平素からそのような判断や行動をとる習慣がなく、訓練もなされていなかったといえよう。つまり、<裏承認社会>にドップリとつかっていたのである。典型的な<裏承認社会>の住人たちに、危機だからといっていきなりリーダーシップを発揮しろといってもどだい無理な話だ。

 もちろんそれはリーダー層にかぎった話ではなく、<裏承認>の風土は広く日本人、日本社会を覆っている。たとえば、「自粛」せずにはいられない空気一色になったかと思えば、潮目が変わると「自粛の自粛」論が幅をきかせる。
 もっとも、それはわが国にかぎられた社会の反応とは言えない。どこの社会でも世論の趨勢というものはあるし、それに反する意見は批判も浴びる。しかし、少なくとも先進国といわれる国々では異論を唱える人たちが、それなりに「居所」を得ている。そして異論を唱え続ける人たちがいる。それに対し、わが国では異論を唱えると徹底的にバッシングされ、表の社会から追放される。つまり、建前では言論の自由とか少数意見の尊重とかいいながら、実際は濃厚な空気がそれを許さない。

 このような社会は、表面的には美しく健全なように見えても、実は危険で脆いところがある。へたをすると、いたるところに慇懃無礼な人や偽善者がはびこる可能性もある。ミネルヴァの森のフクロウのように、事態が落ち着いたら、あらためてこの問題をみんなで考えようではないか。

(2011/4/20)
  1. 2011/04/20(水) 12:53:04|
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災害に対する目の向けかた

 大地震の発生時、私は東京のビルの8階で仕事をしていた。今まで経験したことがない異様な揺れかたに、「たいへんなことが起きている」と直感した。ほどなく巨大地震の発生が伝えられ、2時間ほどたってから急遽予約したホテルに徒歩で向かった。歩道は会社帰りの人や出張に来ている人たちで混雑していたが、彼らの言動からは災害の深刻さはほとんど伝わってこなかった。テレビの報道を見ているかぎり、これほどの大惨事になっているとは知らなかったのだろう。
 阪神淡路大震災のときも同様で、発生後かなり時間がたっても、あれだけの犠牲者が出ているとは想像もしない人が多かった。
 わが国では災害が発生したとき、犠牲者がどれくらい出るかを予想して発表することはタブーである。「不謹慎だ!」と必ず非難を浴びる。そもそも、このようにブログで第三者的に取りあげることさえ不快に思う人が少なくないだろう。
 一方、欧米のメディアのなかには、今回の地震発生後ただちに犠牲者数を予測し、どれだけの大災害かを報道していたところがあった。またアメリカのあるメディアは、危険を冒して原発作業に当たった作業員たちはノーべル平和賞に値すると賛辞を送っている。
 わが国では大災害のときにいくら活躍し、貢献してもヒーロー扱いはしない。まして本人が少しでもヒーロー気取りを見せたら、世間のひんしゅくを買う。だから個人でも企業でも寄付や支援はコッソリと行う。
 しかし、とくに企業の場合、堂々と社名を出して金銭的に、あるいは人的に支援するのが果たしてよくないことだろうか? 宣伝行為だとか、「こんな非常時にあくどい・・・」などと非難されることなのだろうか? 多く企業が競い合って支援するようになれば、たとえそこに打算が働いていたとしてもプラス面のほうがはるかに大きいと思うが。
 犠牲者数の予測にしても、地震発生から早い時期に発表されていたら、みんなが事の重大さを知り、避難や救援がもっと迅速かつ大規模に行えたかもしれない。
 被災者の立場や感情を慮るのはとても大切なことである(それができない人はとても尊敬に値しない)。しかし、気を遣いすぎて及び腰になり、結果的に被害を拡大したり支援をためらわせたりするようでは本末転倒だ。

(2011/3/18)
  1. 2011/03/18(金) 21:55:19|
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ITは、日本型閉鎖システムを変えるか

 入試問題の投稿によって、各大学は受験体制の再チェックが迫られている。大学側をおそらく、携帯電話の持ち込み禁止や電波妨害といった防衛策を取らなければならなくなるだろう。
 
 しかし私は、この事件の背後にはもっと大きな問題が横たわっており、そこにメスを入れなければいつまでたってもイタチごっこが続くのではないかと危惧している。たとえば将来、メガネ、鉛筆、衣類などに辞書機能がつくとか、手の動きを読み取って自動計算し勝手に手を動かすような機械が体に付着されるかもしれない。しかも、それが大量生産されず個別にオーダーメイドされるようになったら大学側は手の打ちようがない。

 では、背後にある「大きな問題」とは何か?
 それは特定の組織や人が個々人を評価し、選別するというところにある。そうした閉鎖的システムは市場や社会といったシステムから切り離され、自己目的的に独り歩きしている(評価や選別をもっと厳格にすべきだという最近の論調はその最たるものである)。そこが問題なのだ。なお詳しくは拙著『選別主義を超えて』(中公新書,2003年)を参照されたい。

 入試問題の流出と必ずしも同列に扱うことはできないが、大相撲の八百長や検察による証拠改竄も携帯メールやフロッピーという情報機器によって動かぬ証拠を突きつけられ、これまで闇に葬られてきたかもしれない問題を表にさらけ出した。大相撲にしても検察にしても、あのような不正を生む動機が働きかねず、しかもそれにブレーキがかからないようなシステムになっている。そこにメスを入れず、モラルや矜持にだけ期待するのはあまりにもナイーブだ。大相撲はともかく、検察の場合は国民の人権が根本から脅かされるだけにたまったものではない。

 ITによってあぶり出された問題の本質は、閉ざされたシステムの限界である。ITは人為的に閉ざされたシステムの壁を容赦なく突破する。おそらく同様の事件は、これからもさまざまな分野でつぎつぎと起こるだろう。これまでのような小手先の改革や弥縫策では糊塗しきれなくなってきたのである。

(2011/3/1)
  1. 2011/03/01(火) 09:23:12|
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ジレンマ

 せっかちな私は、飴もかんで食べてしまう癖がある。そのため、飴と一緒に奥歯の詰め物が取れることがよくある。昨日も詰め物がとれたので、先ほど歯科医院に行った。そして、歯の治療を受けながら考えた。
 こんなにしばしば詰め物が取れるのは困ったものだ。もっとしっかり着けてほしい。しかし歯科医の立場からすると、二度ととれないほど完璧な治療をしたら仕事がなくなってしまう。かといって、あまりにも短期間でとれてしまうようなら、そんな医院にはだれも行かなくなるだろう。同様に、故障や改良の余地がない完璧な車を作ったら自動車メーカーはつぶれてしまうし、犯罪がなくなれば警官は失業する。
 こうしたジレンマは、本を書くときに頭をよぎるジレンマと似ている。かりに完璧な内容の本を書いてしまったら(もちろん実際は不可能だが)、それ以後、もう本は書けない。かりに書いたとしても、読む価値がないので売れない。
 学者や言論人は論理や主張にブレがあってはいけないとよくいわれる。しかし、まったくブレがなければ新鮮さがないので、だれも二度とその人の話を聞いたり書物を読んだりしない(蛇足だが、まじめな人格者が付き合うのには面白くないのもそれと似ている)。
 一貫性を保ちながら継続的に聞き手、読者を引きつけるには、適度なブレ、振幅を意識的につくり出すことが必要かもしれない。しかし、それも下手をすると策におぼれて本末転倒になる。聞き手、読者からすると適度なブレ・振幅を感じながらも、ゆらぎの中から背後にある壮大な理論の体系や深遠な思想がだんだんと鮮明に見えてくるというのが理想だ。
 そう思うと、この歯医者さんは偉大な歯科医かもしれない、と身が引き締まった。「すぐとれる」とときどきぼやきながら、私も家族もたいへん気に入っているのだから。

(2011/2/14)
  1. 2011/02/14(月) 19:46:05|
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やらされ感の源

 明けましておめでとうございます。

 新しい年を迎え、今年こそ何かを続けたいと決意されている人も多いのではないでしょうか。
 私も、昨年の暮れから始めたジム通いをなんとか続けたいと思っています。

 しかし、会員制テニスクラブ、洋雑誌の年間購読、年会費の美術館会員など途中で(というより、始めてすぐに)挫折した経験もたくさんあるだけに不安です。
 続かなかったケースを振り返ってみると、かなりの初期投資をしたことが共通しています。最初に年会費を支払った、高額な用具を購入した・・・などです。
 当初は張り切っているし、初期投資をしたら中途で辞めると損なので長続きするだろうと考えます。ところが、そこに盲点があるのです。たしかに、最初のうちは「元を取らなくては・・・」とがんばります。けれども、だんだんとそれが負担になってきて、やがて奴隷のように「やらされ感」だけで続けるようになります。それがある臨界点に達したとき、あるいは何か自分を正当化できる理由が見つかったとき、「投資は捨てたと思えばいい」と割り切り、辞めてしまいます。いったん辞める決心をしたら、二度と行ったり使ったりすることはありません。

 私の経験では、テニスクラブには年会費を払って2,3回しか行かなかったのに、毎回500円払って参加するテニススクールはかなり長期間通いました。当然ながら毎回払いのほうは「元を取らなくては・・・」という負担感がないので参加するのが楽しみでした。しばらく休んでも、また通いだしました。

 私のほかにも、ジムやテニスクラブに年会費を払ったが、すぐに辞めてしまったという人が大勢います。年会費制のジムやテニスクラブのなかには、設備は立派だけれど閑散としているところが多いものです。会費は払ったけれど辞めてしまう人がたくさんいるので、設備にお金がかけられるのでしょう。うがった見方をすると、会社は「やらされ感」が高じて辞めていく心理的メカニズムを知っているからこそ年会費制にしているのかもしれません。

 ところで、同じようなメカニズムは雇用関係にも見られます。日本の会社では、いったん社員を採用したら簡単に解雇することはできません。いっぽう社員の側は、制度上はいつでも辞められますが、辞めたら再就職するのがたいへんだし、年功制のもとでは給与だけでなく退職金や年金の面でも大きな損になります。したがって心理的には、「辞められない」という意識が強いのです。
 ただ、ジムやクラブと違うところは、生活がかかっているので簡単に辞められないことです。そのためジムやクラブ通いとは違う、独特な行動をとるようになります。
 
 拙著『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)では、日本の労働者の「勤勉さ」や「意欲」をこうした視点も加えながら分析してみました。賛同していただいた方が多かったのは、上述のような経験を持つ人がたくさんいるためかもしれません。

(2011/1/7)
  1. 2011/01/07(金) 10:51:33|
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見えない能力

 昨日会った学生ラグビーの経験者が、「最近の選手は見かけはとても立派になったが、すぐに怪我をする」と語っていた。それを聞いて私は、やっぱりそうかと思った。
 
 私は今月から、メタボ対策のために生まれてはじめてジムへ通うことにした。そこには一目でスポーツマンとわかる筋骨隆々とした人たちが何人もいて、バーベルやトレーニング機器で懸命に筋力を鍛えている。たしかにそれによって大きな筋肉は付くし、見てくれはたくましくなる。けれどもスポーツに必要な細かい筋肉は付きにくい。また当然ながら骨や腱は、筋肉に比例して丈夫になるわけではない。そのアンバランスが自らの体をこわす場合もあるだろう。敏捷性や判断力、すばやい身のこなしなどを含め、スポーツに必要な能力はやはり実践で身につけるのが基本だ。

 ところで昨日、OECDが世界の15歳の生徒を対象にした学習到達度調査の結果を発表した。それによると、日本人生徒の低落傾向にやっと歯止めがかかったそうだ。教育関係者は一安心といったところだが、はたしてそれに一喜一憂している場合なのか。調査で試された能力は読解力、数学的リテラシーなど「見える能力」が中心だ。それらが大切でないとは言わないが、仕事においても生活においてももっと重要なのは独創性、創造性、勘やひらめき、洞察力、相手の気持ちや考えを読む力、といった「見えない能力」である。

 スポーツにしても仕事にしても、最も重要な「見えない能力」は、見えないし、つかみどころがないだけに体系的に育成したり、それを評価・測定したりすることがきわめて難しい。実戦で身につけ、結果を通して事後的に評価するしかないだろう。しかも、その実戦のなかには、いたずらやいじめ、けんかやトラブル、だまし、といった社会的に容認されないものまで含まれていることも事実として認めるべきである。それを考えたら、教育機関など公式な組織でそれを育成することはできない。

 結局、社会の許容度や文化といったシステム全体を再構築していかなければ「見えない能力」は育たないし、そうしないことには日本人、日本企業の国際競争力も改善しないのではなかろうか。

(2010/12/8 誕生日に)
  1. 2010/12/08(水) 12:00:21|
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「自分探し」はほどほどに

 「白鵬の連勝は前半戦でストップする」。身近な人に私はそう予言していたら、残念ながらそれが的中した。予言の根拠は何かというと、場所前の白鵬は「心」の大切さをことさら強調するなど、意識が内(自分)に向きすぎているのを感じたからだ。意識が外にある対象ではなく、自分に向いたとき自滅することが多い。

 大学では毎年、新入生が入ってくると「自己分析」をさせる。それによって自分の強み、弱み、特性などを見つけさせようとするものだが、私は弊害のほうが大きいと思っているのでさせないことにしている。
 意識が自分に向きすぎるのが危険なだけでなく、早くから「自分はこんな人間だ」と思い込んでしまうのもこわい。私自身も中学生か高校生のころに学校で適性検査を受けたが、教室の陰鬱な空気の中で答えたため、予想どおり「屋外の仕事が向いている」という検査結果が出た。でも今は、犬の散歩くらいしか屋外で活動することはない生活を送っており、それが自分に不向きだとも思っていない。
 
 ところで、犬の散歩といえば、散歩中に犬が自分のしっぽを追いかけてクルクルと回り続けることがある。それ見るたびに私は、「これが自分探しだ」と思わずにいられない。犬が自分のしっぽをくわえられないのと同じように、自分で自分を見つけようとしても無理だ。真剣にそれをやっていたら、おそらく一生が自分探しで終わってしまうだろう。

 もちろん、ときには立ち止まって自分を振り返ってみるのもよかろう。しかし、一度振り返ったらすぐに前を向いて進むべきである。そうしないと精神的におかしくなる。
 「自分探し」はほどほどに、というのが私の意見だ。

(2010/11/22)
 
  1. 2010/11/22(月) 17:38:26|
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プロフィール

太田 肇

Author:太田 肇
<ホームページ>
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/

<職業>
「組織学者」としておきます。

<主な研究分野>
組織論
とりわけ、「個人を生かす組織・社会」について

<肩書き>
同志社大学 政策学部・大学院総合政策科学研究科教授
経済学博士

<著書>
◆最新刊 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』(日本実業出版社)

『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)
『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社)
『がんばると迷惑な人』(新潮新書)
『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)
『組織を強くする人材活用戦略』(日経文庫)
『表彰制度』(日本表彰研究所との共著 東洋経済新報社)
『社員が「よく辞める」会社は成長する!』(PHPビジネス新書)
『公務員革命』(ちくま新書)
『承認とモチベーション -実証されたその効果-』(同文舘)
『「不良」社員が会社を伸ばす』(東洋経済新報社)
『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)
『認め上手  -人を動かす53の知恵-』(東洋経済新報社)
『認められる力』(朝日新書)
『日本的人事管理論』(中央経済社)
『承認欲求』(東洋経済新報社)
『お金より名誉 のモチベーション論』(東洋経済新報社)
『「外向きサラリーマン」のすすめ』(朝日新聞社)
『認められたい!』(日本経済新聞社)
『「個力」を活かせる組織』日本経済新聞社)
『選別主義を超えて』(中公新書)
『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書)
『個人尊重の組織論』(中公新書)
『ホンネで動かす組織論』(ちくま新書)
『囲い込み症候群』(ちくま新書)
『仕事人(しごとじん)の時代』(新潮社)
『仕事人と組織』(有斐閣)
『日本企業と個人』(白桃書房)
『プロフェッショナルと組織』(同文舘)

<生活信条>
できるだけ人に迷惑をかけないこと。恩を忘れないこと。

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