太田肇 Critical Essays ”個の視点”

同志社大学政策学部教授 (個人尊重の組織論、モチベーション論)  日常生活のなかで疑問に感じたとき即座に書いたものがほとんどです。不完全な内容や思い違いがあるかもしれませんが、お許しください。

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管理職はまじめなほうがよいか?

 昔、ある役所の採用面接を受けに行ったとき、昼休みに控え室で他の受験者と時間待ちをしていた。すると管理職とおぼしき中年の職員がやってきて、「君たち、互いにライバルなんだから殺し合いをしたらどうだ」と暴言を吐いた。そんな言葉が飛びだすとはだれも想像できないようなお堅い役所だっただけに、一瞬驚いた。しかし、すぐに私は、この役所に入るのも悪くないな、と思った。こんな暴言を吐く人がいるくらいだから、あまり厳しく管理されはしないだろうと想像したからだ。

 また別のある組織に入ろうかと迷っていたとき、トップの人を訪ねて面談したら、彼はある部下についてあらん限りの悪口を並べ、初対面の私に聞かせた。そのときも私は、ぜひその組織で働きたいと思ったものだ。トップと他のメンバーが、上下関係というより対等に近い関係にあり(もっと言うなら、そのアナーキーさが気に入ったのかもしれない)、自由に仕事ができそうだと感じたからである。

 暴言を吐いた人も、部下の悪口を聞かせたトップも、人間としては大いに問題があり、とても尊敬には値しない。しかし、そうした言動が、結果的に部下や周囲の人のやる気を引きだす場合もあるのだ。私が変わっていて、例外だと思われもかもしれないが、一般の企業や役所でもそうした事例にしばしばお目にかかる。なかにはトップがわざと道楽者を装ったり、頼りなさそうに演技したりしていて、社員のモチベーション・アップに成功しているケースもある(『「見せかけの勤勉」の正体』)。

 このような高等戦術は、成功と失敗が紙一重であり、だれにでも勧められるものではない。
 ただ、まじめで威厳のあるリーダーの下に、優等生だが覇気のないフォロワーが増えているのを見ると、固定観念で理想のリーダー像を求めることが空しくなる。少なくとも、「上司は襟を正すべきだ」とか、「率先垂範しろ」といった常套句を安直に並べていてよいものかと考えさせられる。

(2011/2/4)
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  1. 2011/02/04(金) 21:56:06|
  2. 2006年
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またまた連帯責任

 企業スポーツは、いわば会社の看板だ。だからこそ企業はチームに多額のお金をつぎ込んで支援する。その分、チームは企業イメージを損なわないよう気を遣わなければならない。大不況で会社がギリギリまで経費を削減している時期だけに、気の遣いようも相当なものだろう。
 今年のラグビー日本選手権では、トップリーグ1位の東芝が一外国人選手が犯した大麻事件の責任をとり、準決勝への出場を辞退した。1位のチームが出ないとなると、優勝争いの興味は半減する。横綱が出ない大相撲と同じだ。
 出場を辞退した背景には、もしかすると企業イメージに対する気遣いがあったのかもしれない。たとえ一人の選手が犯した不祥事でも許さず、組織として深く反省し責任をとるべきだと。天下の東芝にこれ以上マイナスイメージが広がったら大変だ、というのは理解できる。
 しかし、一選手の起こした不祥事でほかの選手が連帯責任をとらされたことはマイナスイメージにつながらないのだろうか? 以前このブログにも書いたように、連帯責任は表向きは潔く見えて、実はきわめて陰湿で非人間的な側面を持つ。私個人としては、そうした悪弊を絶つために、当該選手には毅然とした態度をとるとともに、チームはあえて出場に踏み切ってほしかった。そのほうが進取的で個人を大切にする企業イメージが植えつけられたような気がするのだが。マスコミや世論の理解と支持がまだ得られそうにないと判断したのだろうか。

(2009/2/15)
 
  1. 2009/02/15(日) 21:46:24|
  2. 2006年
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ほんとうは「認められたい」のだ

 先週、宮崎市にあるコープみやざきの花ヶ島店を訪ねた。私が常々唱えている、「自分を表に出して仕事をする」ことを実践している職場があるという話を聞いて訪問したのだ。
 売り場の各コーナーには、担当者が仕事で心がけていること、お客さん(組合員)への細かいアドバイスや生活情報、それに自分の趣味や家族のことなどを書いた木製の札が掛けられている。まさに「売る人の顔が見える店」だ。職員に話を聞くと、「最初はエー? と思ったが、お客さんとの距離が縮まり、だんだんと仕事に行くのが楽しみになってきた」という答えが返ってきた。たしかに店の中を見回ってみると、職員もお客さんも生き生きとしていて、店全体が明るい。組合員の意識調査を見ても満足度はすこぶる高い。
 学生のレポートや社会人のアンケートを読むと、日本人の自己表現や自己主張がいかに屈折したものかが伝わってくる。彼らはチームの代表に選ばれたとき、あるいは自分が名前や顔写真入りで紹介されるようになったとき、「私、恥ずかしいからイヤです」と辞退しようとする。でも、それは彼らのホンネではないのだ。辞退がすんなりと受け入れられた人は「実は、あのとき背中をもう一押ししてほしかった」、逆に多少強引にでも表舞台に引き出された人は「涙が出るほどうれしかった」と答えているのである。
 「キライキライもスキのうち」とよく言われたものだが、奥ゆかしさを美徳とする<裏承認社会>のわが国では、トップや管理者の主導で自己表現、自己主張を支援することが必要な場合が少なくない。隠れた承認欲求を満たしてあげることが、日本のリーダーやマネジャーに求められる重要な役割なのではなかろうか。相手のホンネが読めない無粋な男と鈍感な上司ほどいらつくものはない。

(2007/4/2)
  1. 2007/04/02(月) 18:56:39|
  2. 2006年
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ホワイトカラー・イグゼンプションについて

 拙著『お金より名誉のモチベーション論』(東洋経済新報社)でホワイトカラー・イグゼンプションを導入したらかえって残業は減るのではないかと述べた。それに対していろいろなところから賛否両論が寄せられている。どちらかといえば反対意見の方が多いようだ。その大半は労働組合の関係者からのものである。
 反対意見の主旨は、現状でさえ残業が長くサービス残業も横行するなかで残業代を支払わずにすむ制度を取り入れたら、残業がいっそう長くなるに決まっているというものだ。たしかに常識的に考えればそのとおりだろう。裁量労働制度を取り入れた事業所では、会社にいる時間がかえって長くなったというデータもある。
 それでも私は、導入に賛成する立場をとり続けたい。もちろんいくつかの条件つきではある。その条件については昨年、日経産業新聞の紙上で述べたのでここでは割愛する。
 繰り返すまでもないが、日本の長時間労働は異常だ。ただ私がいちばん問題にしているのは、その背景にある帰りにくさ、休みにくさである。
 首都圏に住む幼児の父親の平均帰宅時間は午後11時台(北京、上海、台北などは6時台か7時台が最多)。帰りにくいだけではない。最近は超過勤務が朝にシフトし、業種によっては朝6時前後から出勤している会社もある。また有給休暇の取得率は平均47%(欧米をはじめ他国は100%近い)。こうしたわが国の突出した数字を見ても、それが単に仕事の忙しさだけでないことは想像できる。そして帰りにくさ、休みにくさの最大の原因は、拙著で述べたように日本の社会・組織に特有な<裏の承認>の厳しさにあると考えられる(インタビューでもそれを支持する声が支配的だった)。
 感情的な反批判ととられると心外だが、労働組合側に対しては、これほど異常な実態を改善できない現状のもとで、制度改正に反対する資格があるのかと言いたい。改革に反対することは現状を認めていると受け取られてもしかたがない。
 ホワイトカラー・イグゼンプションについては「残業代ゼロ制度」というレッテルが貼られたことにも表れているように、裁量労働制の延長との見方がある。しかし裁量労働制はあくまでも時間管理の対象であるのに対し、イグゼンプションは対象外という根本的な違いがある。働く側からすると、裁量労働制では依然として評価されるために長時間会社にいなければならないという心理が働くが、イグゼンプションのもとではいくら会社にいても評価はされないのである(むしろ光熱費などのコスト増につながる)。したがって、裁量労働制度のデータを持ち出し、ホワイトカラー・イグゼンプションがそれと同じように長時間労働に拍車をかけると主張するのはおかしい。
 <裏の承認>に厳しいわが国の風土を考えると、帰りにくさ、休みにくさを緩和するには、時間で評価される、時間に対して報われるという観念を払拭するしか方法はないだろう。ホワイトカラー・イグゼンプションがベストな制度だとは思わないが、大胆な手を打たないかぎり現状は変わらない。

(2007/2/28)


  1. 2007/02/28(水) 10:30:35|
  2. 2006年
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プロ野球選手の不祥事

 新年早々に残念な出来事だが、プロ野球オリックスの投手が昨日、無免許運転とひき逃げで逮捕された。度重なる違反で免許を取りあげられたにもかかわらず車で仕事に通い続けていたらしく、言語道断だ。
 球団社長はマスコミの取材を受けて陳謝しながらも、「小学生の子どもように、はしの上げ下げまで教えるのか・・・」と答えたという。取りあげた新聞はもちろん、それに批判的だ。しかし私はあえて社長の発言を支持したい。
 今回のような不祥事が許されないのは当然だが、それと会社の管理責任や処罰と短絡的に結びつけるのはどうかと思う。会社の責任を厳しく追及すれば、自然と管理は厳しくなる。わが国のように人権感覚の乏しい風土では、下手をすると大相撲にならって現役中は車の運転を禁止ということになるかもしれない。
 飲酒運転についても、厳しくなった世論を背景に、即免職にする会社や自治体が増えたが、仕事と直接関係のない不祥事でそこまで厳しく処分するのには納得がいかない。「会社・役所の信用を傷つけた」というのが表向きの処分理由だろうが、個人の不祥事を組織の評価と結びつける人も人だし、厳罰を科すことでイメージを回復しようとする組織の姿勢にも何かすっきりしないものを感じる。
 こんなことを言うと私が不祥事に甘いと誤解されるかもしれないが、けっしてそうではない。飲酒運転やひき逃げといった悪質で、しかも人命にかかわるような罪に対しては厳罰をもって臨むべきだと思っている。しかし、それは基本的に一社会人として個人が負うべき責任なのである。
 ここで考えてほしいのは、サラリーマンではなく自営業者だったら(プロ野球選手も法的には個人事業主だが)だれが管理し、どんな処分をするのかということだ。さらに、それ以前の問題として、組織による管理監督や処分を受けない自営業者は事件や不祥事を起こす確率が明らかに高いのか?
 かりにサラリーマンと自営業者の間で事件や不祥事を起こす率に差がないのなら、組織による管理や制裁は効果がないということを意味する。逆に自営業者のほうが高いのなら、サラリーマンだけ厳しく管理し制裁を強めると均衡を失するだけで(自営業者が存在する以上)根本的な解決にはならないことになる。
 組織への依存と組織による厳しい管理の悪循環を断ち切らない限り、ほんとうの自己責任意識は育たないだろう。蛇足だが、小学生のように管理された選手の試合など私は観たいと思わない。

(2007/1/8)
  1. 2007/01/08(月) 10:51:49|
  2. 2006年
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もっと楽しく働けないか

 ここのところ年に数回は海外に行っているが、現地では必ずマクドナルドに入ることにしている。グローバル展開しているうえ、仕事の標準化を売り物にしているので、働き方を比較すると面白いからだ。
 どこの国の店に入っても店員がリラックスして働いているのが印象的だ。日本の店に比べると規律がゆるんでいるようにも見えるが、日本の店よりも気が利くし自然な愛想があって感じがいい。客が少ないときには店員同士がふざけ合っていることもある。日本だったらマネジャーからは叱られるし、客からクレームもつくだろう。しかし、もしかしたらこれだって店員同士のあうんの呼吸や、スムーズなチームワークにつながっているのかもしれない。少なくとも上司や客の目を気にしながら働くよりは、よいサービスができそうに思える。
 近刊『お金より名誉のモチベーション論』(東洋経済新報社)でも述べたが、これはファーストフード店に限ったことではない。マニュアル化の進んだ欧米などの国で日本よりも自律的に働いているのは不思議に思えるが、マニュアルの果たしている役割が違うのではなかろうか。欧米ではマニュアルに書いてある範囲で自由に働こうとするのに対し、日本ではそれを墨守するばかりか、ときには書いてないところまで忖度して従おうとする。
 日本人のそうした規律正しさは、おそらく少品種大量生産の工業化社会で磨かれたものだろう。あらためて言うまでもなく、それは企業の発展にも経済成長にも大きく寄与した。ところが、一つの条件への過剰な適応が別の条件への適応を妨げることがある。ポスト工業化社会では、画一性や規律正しさよりも自分で判断して臨機応変に行動することが重視される場面が増えてくる。低価格と均質性を志向するファーストフードだって例外ではないはずだ。
 もう一つの大きな問題は、過剰な管理の下で働くのは楽しくないことだ。多くの外国人が日本企業で働きたくない理由として、規律が厳しすぎ窮屈だということをあげる。それは意識調査に表れた日本人労働者の低い満足度にもうかがえるし、働いている人の表情を比べても納得できる。
 職場や仕事内容によっては、楽しく働けることを犠牲にしてそこまで「規律」を徹底する必要もなかろう。「社会技術システム論」でいう社会システムと技術システムのバランスをもう一度確認してみる必要がありそうだ。

(2006/12/11)
  1. 2006/12/11(月) 19:23:21|
  2. 2006年
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競争と取引コスト

 福島県、和歌山県と現職知事がつぎつぎに逮捕されるなど、「官製談合」の発覚で自治体が揺れている。談合を防止するには、すべて一般競争入札にすればよいではないかという意見もある。しかし、そうすると過当競争になり劣悪な工事が増えることも予想され、質の低下をいかに防止するかという問題が生じる。そして、もう一つの問題は経済学でいう取引コストの増大である。
 大学では近年、教員を採用する際に公募方式を取り入れるのが普通になってきた。この人に是非来てもらいたいという人を「一本釣り」するよりも、国内外に広く公募するほうが公平かつ客観的だし、優れた人材も得られるだろうと考えるからである。
 ところが実際には、優れた人材の獲得という点で必ずしもベストな方法とはいいきれないようだ。公募方式だと、ダメもとで応募する「泡沫候補」が少なくない反面、大物はあまり応募してこないといわれる。それは、応募するには膨大な資料をそろえる必要があるし、応募した事実が知られる(すなわち現職場への忠誠心・満足度が低いことがバレる)リスクがまったくゼロではないからだ。そして、せっかく応募しても採用されなければ自尊心も傷つく。これらは広い意味での「取引コスト」にあたる。大物になるほど現在の職場における就業条件もよいのが普通なので、それだけのコストをかけてまで応募する気にはならないのだろう。
 インターネットの普及によって取引コストは格段に低下したように見えるが、現実にはまだ有形無形のコストが存在している。自由競争を推進する際に忘れてはならない点である。

(2006/12/6)
 
  1. 2006/12/06(水) 09:30:11|
  2. 2006年
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評価の信頼性について

 私の本を読んだ人が二人いるとする。Aさんは友だちから借りて読んだところ、大変面白くためになったと言う。いっぽうBさんは書店で買って読んだがつまらなかったと言う。純粋な気持ちとして、私はAさんよりBさんのほうに感謝する。それはなぜかと考えてみた。もちろんBさんが印税に貢献してくれたからという単純な理由ではない。
 Aさんは口先だけで評価してくれたのに対し、Bさんは書籍代という費用を払ってくれたからだろう。Bさんは、少なくとも本を読むまでは本の中身に書籍代に相当する値打ちがあると評価してくれたわけだ。
 大学で近ごろはやりの授業評価にも同じことが言えそうな気がする。講義に対して低い評価や辛辣なコメントをしている学生も、その講義を選択して受講したわけである(必修だとかやむをえぬ事情で受講した者もいるだろうが)。やはり、自分で選択したという事実は重い。少なくとも受講しなかった学生よりは、その講義にコミットしていると言えるだろう。
 このような考えかたをすると、良い大学と評判だけれど偏差値が低い大学、良い商品だが売れない商品というのも、ほんとうに「良い」と評価されているのかどうか疑わしくなる。アンケートや口先だけでの評価と、自分の人生をかけて選択し、あるいはお金を払った事実とどちらが重いかということだ。
 安易なアンケートに頼りがちな風潮があるが、評価の信頼性というものをもう一度考えてみてほしい。

(2006/10/10)
  1. 2006/10/10(火) 18:38:21|
  2. 2006年
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大事なルールとそうでないルール

 飲酒運転に対する社会の目が大変厳しくなってきた。郊外の居酒屋で当たり前のように酒を飲んで帰るドライバーを見て腹だたしく思っていた私には、むしろ遅すぎたように感じられる。しかし、飲酒による事故は、今でも連日のように報じられている。習慣とは恐ろしいものだ。
 飲酒運転にかぎらず、重大な違法行為がなくならない原因の一つは、「どうでもよい」というと言い過ぎかもしれないが、あまり重要でない規則が多すぎるからではないかと思う。たとえば遮断機のある踏切でのいったん停止。聞くところによると、停止によるエンストが事故につながる危険性の方が高いらしく、一旦停止が義務づけられているのは日本だけだそうである。
 話は違うが、電車やバスの中で携帯の電源を切らせるのだって同じようなものだ。これも聞くところでは、電波がペースメーカーなどに悪影響を及ぼして事故になった例は世界でまだ報告されていないそうだ。たとえその恐れがまったくゼロではないにしても、携帯のメールを使うことの利便性と天秤にかけた場合、電源まで切らせるのは行きすぎではなかろうか。
 以前のブログにも書いたと思うが、狭い範囲で「完璧」を求めることは必ずしも全体最適にはならない。そして、完全主義の押しつけは、事の軽重を判断する能力を麻痺させてしまう。遮断機のある踏切で一旦停止することを怠るのも、飲酒運転するのも「違反は違反だ」という論理がまかり通るわけである。
 遵法意識を高め、大事なルールは絶対守らせるためにも、どうでもよい(あえて言う)ルールは今すぐ撤廃すべきである。

(2006/10/8)
  1. 2006/10/08(日) 22:21:23|
  2. 2006年
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キレる子

 今日の新聞によると、キレる小学生がここ数年増加しているという。頭がキレるのならいいが、いうまでもなく気持がキレるのである。小学生にかぎらず、最近キレる若者が増加した背景について、家庭でのしつけ、教育環境、偏差値社会、テレビゲームの氾濫、さらにはカルシウム不足といった理由まで持ち出されている。
 キレる若者、登校拒否や引きこもり、ニート、早期離職・・・。それらの増加原因はいろいろあるだろうが、大事な視点が欠落していると思う。誤解を恐れずに言うと、彼らがそうした行動をとるのは、そうした方が「トク」だからだ。もちろん得か損かというのはお金だけではなく、社会的、心理的なさまざまな正と負の誘因を総合して「トク」だからという意味である。
 キレるのは瞬間的だから、損得などは計算していないという人がいるかもしれない。しかし、キレたら大変だとふだんから自覚していたらけっして人前でキレることはなかろう。その証拠に、キレても許される友人、親、教師たちの前ではキレる子も、ほんとうにコワい人たちの前でキレることはない。要するに、キレることで一時的にせよ状況が改善したり快感を味わえたりするからキレるのである。だから、やはり「甘やかし」と無関係ではない。
 登校拒否や引きこもりにしても、学校や外の世界より家庭の方が居心地がよいからそうしているという面があることは否定できない。イジメの深刻化を原因としてあげる教育関係者も多いが、イジメは昔の方が今よりはるかにひどかったと思う。それでも学校に行ったのは、家庭も世間も、学校へ行かないことに対して今ほど寛容ではなかったからだろう。
 大人の世界も同じだ。昔、ある職場に、しばしばキレて周囲に怒鳴り散らす人がいた。だれも関わりたくないので相手にしないと、それはますますエスカレートしていった。ところがあるとき、それを目撃した幹部がみんなの前で厳しく叱った。それを機に彼はけっしてキレることがなくなったことを思い出す。
 気に入らないとちゃぶ台をひっくり返す父親や、ゼミ生の発表がなってないと灰皿を投げる教授もいなくなった。今ならすぐに離婚や「アカハラ」の問題になりかねないからだ。
 念のために断っておくが、キレる子の増加にしても、登校拒否や引きこもり、早期離職にしても背後にある社会的な問題を直視し、それを解決することが不要だといっているわけではない。それはそれで大いに議論しなければならない。
 しかし、得か損かという人間の行動を左右するいちばん単純な要因に触れることを避けていたなら、議論が恣意的に流れ、こうした社会問題も自分の主張を正当化したり利益を追求したりするための手段として利用される恐れがある。だから「身も蓋もない」話だがあえて問題提起したいのである。

(2006.10.2)
  1. 2006/10/02(月) 09:32:37|
  2. 2006年
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「プロフェッショナル」のもの足りなさ

 NHKの「プロフェッショナル」をときどき見ているが、正直言って「プロジェクト-X」のときほどの感動はない。むしろ、大げさなナレーションと登場人物の平凡な言葉との間にギャップがありすぎてしらけることが多い。
 原因はいろいろ考えられるが、一つは登場するプロフェッショナルが大事なポイントを話さないからではないかと思う。司会者が「プロフェッショナルとは?」とか、「あなたがふだん意識していることは?」と問うても、平凡な答えが返ってくる。ほんとうに大事なポイントは別にあるのだろうが、それを話すわけがない。彼らが一流として、あるいはトップで活躍し続けるうえで、ほんとうに心がけていることや勘所は、いわば企業秘密だからである。それを正直に語ってもらおうというのは虫がよすぎる。
 近年はやりの知識創造やコンピテンシーにしても、あるいは技能伝承にしても同じだ。苦労して身につけた競争優位の源泉を簡単に教えるはずがない、ということになぜ気がつかないのだろうか。ほんとうに大事なポイントを聞こうとするなら、相当の対価を用意しなければならない。もちろん、対価はお金にかぎらないが。

(2006.8.31)
  1. 2006/08/31(木) 08:52:56|
  2. 2006年
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熱意と分別

 教室で女子生徒のお腹をつついた教師がセクハラで懲戒処分になったという記事が載っていた。生徒の背中にあだ名を書いた紙を貼った教師や生徒に暴言を吐いた教師も記事になっていた。はっきりしたわいせつや暴力は論外だが、こうした比較的軽微な問題まで大げさに取りあげられたり厳しく処分されたりすると、教師が萎縮してしまわないかと心配だ。
 教師に対してこのように同情的になるのは、もしかすると世間が教師に対して二律背反するものを求めているのではないかと思われるからだ。
 小中学校教師の採用試験では、近年とくに「熱意」が強く問われるようになった。ところが教育に対して熱意がある教師は、入れ込みすぎたり生徒に近づきすぎたりしてしまうことがある。冒頭に書いた「こづき」や暴言も熱血と紙一重ではなかろうか。少なくとも、要領のよいサラリーマン型の教師はこのような「事件」を起こすことはないだろう。
 このようにいうと、「熱意」と「脱線」とは違うという、当たり前の反論がかえってくるにちがいない。たしかにそのとおりだが、それを完璧にわきまえた人間がどれだけいるだろうか。
 教師を取り巻く環境はだんだん厳しくなるにもかかわらず、待遇は悪くなる一方である。夏休みは召し上げられたうえ、給与も引き下げられる。せめて尊敬されたり感謝されたりすれば救われようが、生徒や保護者のそうした気持ちも薄れている。
 実際、景気回復で民間企業の待遇がよくなるにつれて教員志望者は大幅に減少しているといわれる。自治体によっては競争率が二倍程度のところもあるそうだ。不況で買い手市場のときならいざ知らず、今のように明らかな教員離れが進んでいる中で、熱意と分別を完璧に備えた理想的教員をどれだけ確保できるだろうか。

(2006.8.5)
  1. 2006/08/05(土) 21:25:39|
  2. 2006年
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高校野球の審判について

 スポーツの話が続くが、今年も夏の甲子園大会が近づいてきた。選手はもちろんだが、審判も炎天下でほんとうにご苦労だと思う。けれども、審判技術の問題はまた別だ。試合を見ていると、ときには納得できない判定もある。それでも審判の判定は絶対だ。
 そもそも選手は予選を勝ち抜いて出場するのに、審判にはなぜそのような競争がないのか。各地域から派遣された審判もいるが、大半は毎年同じ地元の審判だ。全国各地には、おそらく優れた審判がたくさんいて、費用は自弁でも甲子園に行ってみたいと思っている人も少なくないだろう。全国から優れた審判を毎年推薦するようにすれば、審判の技量もきっと上がるに違いない。
 サラリーマンの世界でも同じだ。いくら部下が優秀でも、それを評価する上司の能力が不十分なら、部下はやる気をなくすにきまっている。
 審判も上司も神ではないので完璧を求めるのは酷だが、少なくとも判定や評価の能力が向上していくようなシステムを取り入れるべきではないか。

(2006.7.27)
  1. 2006/07/27(木) 22:36:01|
  2. 2006年
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相撲協会と人事部-この「日本的」なるもの

 大相撲ファンの私だが、ときどき興ざめすることがある。その「犯人」はたいてい相撲協会だ。
 今日の千秋楽も、白鵬の横綱昇進と雅山の大関復帰がかかっていたので仕事を早めにかたづけ、手に汗を握りながら応援していた。両方とも勝ったので胸をなで下ろしていたら、なんと「両者とも昇進見送り」だという。なんと不可解な!
 大関で2場所連続優勝またはそれに準ずる成績なら横綱昇進という基準や、3場所の通算が33勝で大関昇進という目安があるではないか。それをクリアしていても昇進させないというのなら、何を基準に昇進を決めるというのか。
 大相撲では、行司が最終的な勝負の判定権をもたず、また判定にいち早くビデオを取り入れるなど、他のスポーツと比べても判定は公明正大だ。その点は高く評価している。しかし、いくら勝負判定が正確でも、取り組みや昇進の決定が恣意的なら、まったく意味がない。せめて場所前に、今場所「11勝以上で大関昇進」「13勝以上の優勝で横綱昇進」というぐらい公約すべきだろう。かりにも公的な財団法人なのだから。
 これが「日本的」というなら、会社や役所の人事もさすがにそれとそっくりだ。目標管理で目標達成率を数字で評価し、また個別の評価要素を積み上げておきながら、最終的には何が「総合」だかわからない総合評価で処遇がきまる。課長試験に合格しながら、いろいろな理由でケチをつけられて昇進が見送られる人も多い。サラリーマン社会では、白鵬や雅山のような目に遭っている人が星の数ほどいるのだ。しかも、閉ざされた世界で働きブラックボックスの中で評価される彼らは、力士と違って世間から同情さえしてもらえない。
 公務員試験や教員の採用試験でも、筆記試験に合格した者の中から、うさんくさい「人物評価」で最終合格者を決める。「人物評価」が縁故採用の温床になっていることはもはや公然化しつつある。どうせ合格させないのなら、最初から「あなたは人物に問題があるので筆記試験でいくらよい点を取っても採用しません」と受験を断ればよい。そうすれば受験者に無駄な努力をさせることもない。
 そして、これらの不明朗な決定はたいていの場合、個人の顔が見えない集団で行われる。「三人寄れば文殊の知恵」といわれるが、そこで生まれるのはよい智恵ばかりとは限らない。個人的にはしっかりしたポリシーや責任感をもつ人も、集団になれば無分別・無責任になり、自分たちに都合のよい意思決定に加担してしまうこともある。だから集団主義はこわい。
 いずれにしても、特定の人や集団が個人の生殺与奪の権限を握るような体質を改めなければ、個人のやる気も組織の活力も生まれない。日本人力士が弱いのも、もしかしたらそんなところに遠因があるのではなかろうか。

(2006.7.23)

テーマ:スポーツ・格闘技 - ジャンル:ニュース

  1. 2006/07/23(日) 22:33:37|
  2. 2006年
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「足で稼ぐ」研究

 先日、講演で広島を訪れた際、ちょっと足を延ばして友人と周防大島を訪ねてみた。瀬戸内海に浮かぶこの島は、日本最高の高齢化率でも知られるが、『忘れられた日本人』などを著した偉大な民俗学者宮本常一氏の生地としてもっと有名だ。かねてから私は、敬愛する氏の生地を一度訪ねてみたいと思っていた。
 訪れてみると、予想通りのどかで自然に恵まれたすばらしい島だった。日本中を踏破し、調べ尽くした氏の知的好奇心とエネルギーはこんな環境から生まれたのかと勝手に想像した。
 ここまで来たら是非生家を見てみたいという欲が湧いてきた。たまたま出会った老人にその気持ちを伝えたところ、親切なその人は私たちを生家と、氏が眠るお墓にまで案内してくれた。十数年来の夢が叶い、まるで天にも昇る気持ちだった。お目にかかることはできなかったが、常一氏の奥様は95歳の今も元気に畑でサツマイモなどを栽培されているという。
 私が宮本氏に惹かれる理由は志や生き方などいろいろあるが、研究の手法としては徹底して自分の足で歩き、自分の目で見たことだ。「自分の目で見ろ」とか「足で稼げ」とはよく言われるが、ここまでそれを徹底した人は他にいないだろう。
 直接見たものには無限の情報が含まれていて、そこから新しい発想や創造が生まれる。その理由について自分なりに考えることはあるが、またの機会に述べることにしたい。
 とにかく長年の夢が予想以上の形で実現でき、半月たった今でもその余韻に浸っている。

 (2006.6.19)
  1. 2006/06/19(月) 13:42:00|
  2. 2006年
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マジョリティを制す

 選挙は数の勝負だから、いかに多数派の票をつかむかがポイントになる。かつて農村から都市への人口流出が進むなかで、農村を基盤にする自民党がなぜ与党であり続けられるのか、政治に素人の私はずっと疑問に思っていた。都市の人たちも黙っていないだろうから、官僚型選挙や、選挙区をはじめ自民党にとって都合のよい制度もいずれ改められるだろう。そして、自民党が都市重視へと方針転換したとき農村はどうなるのかと心配していた。選挙制度が少しずつ改正され、小泉氏が総理になったとき、それは現実のものとなった。都市型政治家の小泉氏が人気を集め、都市に軸足を移した自民党が選挙で圧勝するのは考えてみれば当然である。
 かりに民主党が政権を取ろうとするなら、多数に支持される別の対立軸を示さなければならない。その一つは、強者対弱者だろう。ちなみに「勝ち組」対「負け組」だと、誰も自分が負け組だとは認めたくないので支持は得られそうにない。昨年の総選挙で小泉総理が「郵政民営化に賛成か反対か」を争点にしようとしたとき、なぜ民主党は「弱者か強者か」で切り返さないのか私は強く疑問を感じた。案の定、選挙は自民圧勝、民主惨敗で終わった。
 しかし自民党、あるいは小泉内閣にとって一番の弱点は、やはり「強者の方を向いた政治」と攻撃されることだろう。昨日行われた千葉4区の補欠選挙で自民党候補が敗れたのをみて、この弱点を鋭く突かれたら、もしかすると政局は流動化するかもしれないという予感がしてきた。

  (2006.4.24)

テーマ:選挙 - ジャンル:政治・経済

  1. 2006/04/24(月) 09:48:15|
  2. 2006年
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人の扱い、人への接し方

 新興企業や一部外資系企業のなかには、人を人とも思わないような会社がある。人を大切にしてきた伝統的な日本企業とは対照的だ。
 私たちは「人を単なる手段と考えてはいけない」と言い聞かされてきた。会社は一種のコミュニティ(共同体)であり、社員を仕事のための手段以上のものとして扱ってきた。ところが、評価軸がはっきりしていないので、結果的に内部の力関係や感情など不条理な要素で選別したり差をつけたりするようにもなった。ジェンダーをはじめさまざまな社会的差別は、その最も忌まわしい副産物である。
 一方、「人を人とも思わない」会社のなかには単純だが明確な評価軸を備えているところがある。「仕事さえしてくれればよい」、「仕事ができる社員が良い社員だ」というわけである。しかも仕事ができるかできないかは、やらせてみないとわからないから、「結果がすべて」だ。ずいぶん乱暴なようだが、その考え方を徹底すれば少なくとも理屈のうえでは不条理な差別の大半が無くなるはずである。
 個人的な人間関係でも、深い精神的な交わりを求める人は優しくて温かい反面、人の好き嫌いが激しく、同じ相手でも期待に応えられないと感情を損ねる難しさがある。それに対して功利的・打算的な人は、優しさや温かさに欠ける反面、誰とでも分け隔てなく接するし、はっきりした理由なく関係が破綻することもない。
 私たちは安易に両方を求めるが、どうすればそれに応えられるのだろうか。
 (2006.4.22)
  1. 2006/04/22(土) 09:42:57|
  2. 2006年
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続けるということ

 阪神の金本選手が連続フルイニング出場の世界記録を樹立した。本当にすばらしく、「国民栄誉賞」ものだと思う。
 金本選手の足元にも及ばないが、続けたという点で私も少しは自慢できることがある。それは小学校4年生以来、40年以上一日も欠かさず日記を書いていることだ。日記といっても、その日の天気と、その日にあったこと、自分がしたことを数行書いているだけで無味乾燥なものだが、われながらよく続けてこられたと思う。
 振り返ってみると、何かの事情で一日でも書けない日があったらこれまで続けてこられたかどうか自信がない。金本選手も、もし怪我でもしたらその後が心配だ。
 何事でも続けるということは尊いことだが、それ自体が目的化し、しかも絶対的な目的になると問題である。たとえば、小学校でクラス全員が一年間無遅刻無欠席という目標を立て、それを達成したという「偉業」が報じられることがあるが、その過程では相当の無理があったのではないかと想像される。少々の病気では休めないし、遅刻しないために危険な道路横断をしたかもしれない。とくに記録達成が近づいてからのプレッシャーは、自分の記録だけですむ金本選手以上だったに違いない。
 無遅刻無欠席だった子が、何かの理由でたまたま休んでから登校拒否になったという話をよく聞く。禁煙を続けていた人が、飲み屋で一本吸ってしまったのをきっかけに再び吸い出したという例も多い。いずれも、続けることだけが目的になっていたためである。
 むしろ大事なのは、記録が途切れたあとで気分を切り替えて再び続けられるかどうかだ。そのためには、記録を超える大きな目的や目標をもつことが必要だろう。記録が途切れたあとの金本選手にも注目したい。

 (2006.4.18)

テーマ:日記 - ジャンル:日記

  1. 2006/04/18(火) 18:51:03|
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駒大苫小牧高のセンバツ出場辞退に思う

 「またやってしまった!」。駒大苫小牧高部員の飲酒・喫煙問題についての印象である。「また」というのは、作夏につづいて同校の不祥事が繰り返されたという意味でもあるが、それよりも不条理な連帯責任で罪のない選手の夢と権利を奪ってしまったことのほうが残念だ。
 今回の件では、センバツに出場が決まっていた1,2年生部員には何の責任もない。責任を問われるとしたら、監督責任を果たせなかった校長や監督たちであって、自分たちが辞めるのに罪のない選手を道連れにすることはないだろう。
 最近の高野連は、部員の不祥事があっても当該部員の出場停止のみにとどめ、連帯責任は問わない方向にあった。しかし今回の件は2度目ということもあり、高野連としても苦しい判断を迫られたはずだ。出場辞退という学校(校長)の決定は、そうした高野連の苦衷を察しての判断だったかもしれない。なぜ、その気遣いを生徒に対してはしてやらなかったのか。
 もう一つの問題は、飲酒・喫煙に対する制裁が重すぎないかということだ。未成年者の飲酒や喫煙が良くないのは当然だが、街を歩けば制服を着た子供たちが平気でタバコを吸っているし、飲み屋では明らかに未成年者とわかる若者にアルコールを提供している。それを野放しにしておいて、単に野球部員だというだけでこれだけ重い社会的制裁を科すのは、大人にとって都合のよい責任転嫁のように思える。
 いずれにしても、個々の選手にとってはあまりにも酷ではないか。そこには教育者としてほんとうに必要な温かさや人権感覚がまったく感じられない。いくら美辞を弄しようとも、これでは真っ直ぐな若者が育つのかどうか不安だ。
 (2006.3.3)

テーマ:社会ニュース - ジャンル:ニュース

  1. 2006/03/03(金) 18:45:15|
  2. 2006年
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完全主義の足かせ

いろいろな政策が暗礁に乗り上げているのをみていると、非現実的な「完全主義」が足かせになっていることが実に多い。子育て支援で子供を預かるにも、万が一事故が起きたときのことを考えると及び腰になるし、大学の入試問題を予備校に外注しようとすると万が一ミスがあったときの責任が問題になる。医療や食品の安全性にしても、100%の安全はありえない。しかし、それを口にすることはタブーである。
 そして、ある部分で100%の安全にこだわっても、視野を広げてみるとあまり意味がないことが多い。たとえば100%安全な食品だけを食べていても、汚れた空気を吸わないわけにはいかないし、いつ脇見運転の車が突っ込んでくるかもしれない。医療でも同じだ。かつてインフルエンザの予防接種の副作用で何人か死者が出たとき、集団接種が中止されたことがあった。一説では、そのためにインフルエンザで亡くなる人がたいへんな数に上ったといわれる。しかし、接種で万が一死者が出たり後遺症が残ったりしたとき接種した医師が責任を追及されるのなら、接種を拒否したくなるのは当然だろう。
 現実に、すべては確率の問題なのである。確率で考え議論することが許されなければ、何ごとも前に進まない。
  1. 2006/03/02(木) 18:06:45|
  2. 2006年
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「外向き・・・」もう一つの効用

 私は、結婚式のスピーチで「幸せな家庭をつくりたければ、幸せな家庭をつくろうと思いすぎない方がよい」という言葉を贈ることにしている。幸せな家庭をつくろうとまじめに考えすぎると、些細なことまで気になってストレスがたまったり、相手に過大な要求をしてけんかになったりする。健康に気を遣いすぎて体調を崩す「健康ノイローゼ」も同じだ。
 私自身もしばしばこうした経験をする。たとえば、本を書き終えたとたんに日常の些事が気になりだす。脱稿したことは編集者以外のだれにも知らせないが、私が急に口うるさくなるので家人はすぐに気がつくらしい。
 皮肉なもので、大学でも会社でも組織をよくしようと熱心になるほど、かえって効率も人間関係も悪くなることがある。まるで、もがけばもがくほど逃げられなくなるアリ地獄を見ているようだ。
 いずれも、メンバーの意識が「内向き」になってしまって、組織がいわば自家中毒症を起こしているのである。したがって、それを防ぐにはメンバーが常に外を向いて活動し、組織はあくまでも手段だという原点に返ることが必要だ。もちろん家庭のように、かりにそれが組織だとしても<手段>とは割り切れないものもあるが、それでも「幸せな家庭づくり」を究極の目的あるいは最大の生き甲斐としない方が、結果的に幸せな家庭になりそうな気がする。
 近著『外向きサラリーマンのすすめ』では、「外向き」で働くことによって、「内向き」では夢のような可能性が開けてくることを強調したが、「外向き」にはここで述べたような副次的効果もあることを付け加えておきたい。
(2006.1.20)
  1. 2006/01/20(金) 13:59:25|
  2. 2006年
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プロフィール

太田 肇

Author:太田 肇
<ホームページ>
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/

<職業>
「組織学者」としておきます。

<主な研究分野>
組織論
とりわけ、「個人を生かす組織・社会」について

<肩書き>
同志社大学 政策学部・大学院総合政策科学研究科教授
経済学博士

<著書>
◆最新刊 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』(日本実業出版社)

『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)
『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社)
『がんばると迷惑な人』(新潮新書)
『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)
『組織を強くする人材活用戦略』(日経文庫)
『表彰制度』(日本表彰研究所との共著 東洋経済新報社)
『社員が「よく辞める」会社は成長する!』(PHPビジネス新書)
『公務員革命』(ちくま新書)
『承認とモチベーション -実証されたその効果-』(同文舘)
『「不良」社員が会社を伸ばす』(東洋経済新報社)
『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)
『認め上手  -人を動かす53の知恵-』(東洋経済新報社)
『認められる力』(朝日新書)
『日本的人事管理論』(中央経済社)
『承認欲求』(東洋経済新報社)
『お金より名誉 のモチベーション論』(東洋経済新報社)
『「外向きサラリーマン」のすすめ』(朝日新聞社)
『認められたい!』(日本経済新聞社)
『「個力」を活かせる組織』日本経済新聞社)
『選別主義を超えて』(中公新書)
『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書)
『個人尊重の組織論』(中公新書)
『ホンネで動かす組織論』(ちくま新書)
『囲い込み症候群』(ちくま新書)
『仕事人(しごとじん)の時代』(新潮社)
『仕事人と組織』(有斐閣)
『日本企業と個人』(白桃書房)
『プロフェッショナルと組織』(同文舘)

<生活信条>
できるだけ人に迷惑をかけないこと。恩を忘れないこと。

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