講座概要
いま多くの企業や団体、機関が「人」の問題で悩んでいます。人の問題を解決するには、組織そのものを変えなければなりません。しかも小手先の工夫やノウハウではなく、組織そのものを「改造」することが必要です。組織をどのように改造すれば組織と従業員双方にとってプラスになるのか。講義と参加者同士の議論 をとおして、参加者一人ひとりが新しい組織・マネジメントの枠組みと改造の方法を見つけていきます。中小企業やNPOなどで経営に携わる人、大企業や中堅企業の管理職、コンサルタントや社会保険労務士といった人たちを想定した参加型の講座です。
毎回、前半の45分は講義、後半は30分間参加者同士で議論し、残りの15分で議論内容を発表していただき、講師からコメント、質疑応答を行います。
大学院のゼミと同じようなスタイルで行います。
申し込み方法など詳細は、下記のサイトをご覧ください。
http://www.doshisha.ac.jp/admissions_continuing/open_lecture/tokyo/soshiki.html
(2016/8/22)
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テーマ:お知らせ - ジャンル:ニュース
- 2016/08/22(月) 16:01:00|
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みなさまにお詫び。
ブログはしばらく更新していません。
かわりにツイッターやフェイスブックを使っていますので、そちらをご覧ください。
よろしくお願いいたします。
- 2016/01/04(月) 21:10:47|
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対象:学習塾、サービス業、小売業、医療、公務、その他各業種。
条件① 概ね100名以上(統計的に必要なため)。② 費用は実費のみのものから、大学との共同研究まで(ご相談)。
メリット
① 組織ぐるみでほめる取り組みが実践でき、その効果が確認できる。
② 効果をマネジメントに利用できる。
ご関心をお持ちの方は、お気軽に下記へご連絡ください。
太田肇
研究室 電話 075-251-3505 hajohta@mail.doshisha.ac.jp
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/
- 2014/10/08(水) 10:18:45|
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今日から大学入試センターの試験が行われている。折しも入試改革の議論がわきあがった最中での試験である。
教育再生会議では、達成度テストの導入と人物重視を提言し、それに対して関係者からはさまざまな意見が寄せられている。
しかし私はそこでの議論に対して隔靴掻痒の感を覚える。本質を正しく突いているとは思えないからだ。たとえていうと老朽化した家を補修、補修で間に合わせているように見える。いま必要なのは補修ではなく、改築だろう。それほど根本的なところに問題があると思う。
以下、私見を述べてみたい。
最初に確認しておきたいことが二つある。
一つは、そもそも入試の目的は何かという点である。この点については、大学教育を受け、能力向上に結びつけられるだけの学力・資質があるかどうかを判定するのが目的だということに大きな異論はなかろう。
もう一つは、有為な人材を選別するという機能的な側面と、大学教育を受ける権利が公平に与えられるという個人の権利的な側面の両方に配慮しなければならないという点である。
後者について敷衍すると、企業や役所の採用試験なら、機能的な側面が圧倒的に重要になる。極論するなら、より優秀で貢献できそうな人間を採ることだけを考えて選べばよいわけである。一方、大学入試の場合そうはいかない。しかも機能的な視点からも、後述するように選別の合理性、妥当性が大きく崩れている。
これら二点を前提にして再生会議の提言を見ると何が言えるか?
まず、センター試験に代わる「達成度テスト」を導入するというのは、第一の前提に適っていて評価できる。問題は「人物重視」の方である。人物重視にしても、あるいは創造性などの能力重視にしても、それによって選別されるとなると、選別されるための猛勉強や受験対策が加熱することは目に見えている。そうなると、せっかくの資格試験的性格を持つ達成度テストが意味をなさなくなる。
つまり、「大学教育を受けるための能力判定」ではなく、受験突破能力で競争させ、その上位者から選ぶことになってしまう。それが本来の目指す方向でないことは明らかだ。
また、人物といった抽象的・主観的な要素で選別するのは言うに及ばず、創造性などの能力で選んでも公平性などの権利的側面がかなり脅かされる。
つぎに、機能的な側面から選別の合理性・妥当性について考えてみよう。
周知のとおり、ICT(情報通信技術)は加速度的に進んでおり、人間の能力、果たしてきた役割を急速に浸食しつつある。とりわけ記憶力や知識の詰め込み、正解の決まっている問題を解く作業などはコンピュータが最も得意とするところであり、受験勉強で身につけてきた能力や入試で問われる能力の大半は、ノートパソコン一台で取って代わることができる。あと五、六年もたてば、コンピュータが東京大学に「合格」できるともいわれているくらいだ。
だとしたら、これらの能力は一定水準あればよく、それ以上のレベルで競争させても若者を疲弊させるだけで意味がないということになる。現実世界の要請から遊離した受験スペシャリストのチャンピオンを選ぶ現在のシステムの延長線上に、正しい方向性は見えてこない。
情報化・ソフト化が進んだポスト工業化社会には、たしかに独創性や創造性が重要になる。しかし、そもそもだれも答えを出していないし、そこへいたるプロセスもパターン化できないからこそ独創的なのだし、コンピュータに代替されないのである。したがって予め「正解」を用意して独創性・創造性を判定しようとすること自体が自己矛盾である。
そこで、「選別ができる」「選別すべきである」という固定観念を思いきって捨てた方がよい。
一次はセンター試験に代わる資格試験的な試験を行い、二次は抽選にするのである。
暴論だとか責任放棄だとか思われるかもしれないが、はたしてそうだろうか?
かりに実現したら、どのような変化が生まれるかを予想してみよう。いくら幼時から受験勉強に力を入れても二次の抽選で落ちたらどうしようもないので、一次試験に通るだけの勉強はしなければならないが、それ以上の無意味なゼロサム的受験勉強から解放される。その結果、受験に有利か不利かといったことに縛られず、語学だとかスポーツだとか、科学だとか、一人ひとりの興味や特性を活かした勉強に取り組むことができる。そこではじめて「ゆとり教育」の崇高な理念も実を結ぶ。
要するに長年、受験戦争、受験社会の弊害とされてきた問題が根本的に解決されるわけである。
実際に運営するに当たっては、大学ごとに一次募集、二次募集というように定員を定めて抽選すれば、ぜひとも国立大学に行きたいという者は、一定の学力さえ備えていればかなり高い確率で入れるはずである。当然、人気のある大学ほど受験者が増えるが、抽選の倍率も高くなるので適度に分散される。そして運悪く抽選に漏れた者やこれまでどおりの受験で入りたい者は私立大学を受ければよい。
このような制度を本気で導入しようとすれば、さまざまな利害関係者からの批判や抵抗が起きることは明らかだ。しかし、これくらい思いきった改革をしなければ、日本社会にも若者にも明るい未来はやってこないと私は確信している。
(2014/1/18)
テーマ:大学受験 - ジャンル:学校・教育
- 2014/01/18(土) 13:34:43|
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