大相撲ファンの私だが、ときどき興ざめすることがある。その「犯人」はたいてい相撲協会だ。
今日の千秋楽も、白鵬の横綱昇進と雅山の大関復帰がかかっていたので仕事を早めにかたづけ、手に汗を握りながら応援していた。両方とも勝ったので胸をなで下ろしていたら、なんと「両者とも昇進見送り」だという。なんと不可解な!
大関で2場所連続優勝またはそれに準ずる成績なら横綱昇進という基準や、3場所の通算が33勝で大関昇進という目安があるではないか。それをクリアしていても昇進させないというのなら、何を基準に昇進を決めるというのか。
大相撲では、行司が最終的な勝負の判定権をもたず、また判定にいち早くビデオを取り入れるなど、他のスポーツと比べても判定は公明正大だ。その点は高く評価している。しかし、いくら勝負判定が正確でも、取り組みや昇進の決定が恣意的なら、まったく意味がない。せめて場所前に、今場所「11勝以上で大関昇進」「13勝以上の優勝で横綱昇進」というぐらい公約すべきだろう。かりにも公的な財団法人なのだから。
これが「日本的」というなら、会社や役所の人事もさすがにそれとそっくりだ。目標管理で目標達成率を数字で評価し、また個別の評価要素を積み上げておきながら、最終的には何が「総合」だかわからない総合評価で処遇がきまる。課長試験に合格しながら、いろいろな理由でケチをつけられて昇進が見送られる人も多い。サラリーマン社会では、白鵬や雅山のような目に遭っている人が星の数ほどいるのだ。しかも、閉ざされた世界で働きブラックボックスの中で評価される彼らは、力士と違って世間から同情さえしてもらえない。
公務員試験や教員の採用試験でも、筆記試験に合格した者の中から、うさんくさい「人物評価」で最終合格者を決める。「人物評価」が縁故採用の温床になっていることはもはや公然化しつつある。どうせ合格させないのなら、最初から「あなたは人物に問題があるので筆記試験でいくらよい点を取っても採用しません」と受験を断ればよい。そうすれば受験者に無駄な努力をさせることもない。
そして、これらの不明朗な決定はたいていの場合、個人の顔が見えない集団で行われる。「三人寄れば文殊の知恵」といわれるが、そこで生まれるのはよい智恵ばかりとは限らない。個人的にはしっかりしたポリシーや責任感をもつ人も、集団になれば無分別・無責任になり、自分たちに都合のよい意思決定に加担してしまうこともある。だから集団主義はこわい。
いずれにしても、特定の人や集団が個人の生殺与奪の権限を握るような体質を改めなければ、個人のやる気も組織の活力も生まれない。日本人力士が弱いのも、もしかしたらそんなところに遠因があるのではなかろうか。
(2006.7.23)
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- 2006/07/23(日) 22:33:37|
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