太田肇 Critical Essays ”個の視点”

同志社大学政策学部教授 (個人尊重の組織論、モチベーション論)  日常生活のなかで疑問に感じたとき即座に書いたものがほとんどです。不完全な内容や思い違いがあるかもしれませんが、お許しください。

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動態的に考える

 先月開催された組織学会の大会で、ゲストとして講演した株式会社ミスミ社長の三枝匡さんが最後につぎのような話をされた。
 自分が社長に就任するまでのミスミは、あまりにも自由すぎた。その弊害が表面化したので少し管理するようにした。しかし管理しすぎるとこんどは社員の自主性や活力がそがれる。そうなるとこんどは管理をゆるめる。その繰り返しだと。

 どのような組織が理想的か? 
 組織論の専門家でなくても、人をまとめる立場の人はそれを考え、理想を追求してきたはずだ。組織は統制と規律が何より大切だという人もいれば、組織は仕事をするためのインフラ(場)であってメンバーの自律を最大限に尊重すればよいという人もいる。統制と自律のバランスが大切だという常識派(中庸主義者)も多い。ところが、どのモデルをとるにしても、いずれ壁にぶつかることが多く、その段階で、自分の理想や信念は瓦解してしまう。

 しかし、動態モデルを取り入れれば、もう少し柔軟に考えることができ、理想や信念は結果的に生き残る。たとえばメンバーの自律を最大限に尊重すべきだが、人間は期間がたつとだれでも自分の方向性を見失ったり、組織や他のメンバーからの要請を忘れたりする。そこでしばらく規律や管理を経験させる。そしてまた元に戻す、といった具合にするのだ。

 これは組織にかぎった話ではない。
 たとえば子育てでも、子どもは自由に伸び伸び育てればよいと考えている人もいるし、厳しくしつけなければならないと信じている人もいる。しかし、そのように単純な信念を通して立派な大人に育てあげたという人はまれではなかろうか。自由にさせすぎて道を踏み外した、事故に遭ったとか、逆に厳しくしすぎて自主性のない人間になった、反抗期が遅れてやってきた、というのがむしろ普通だ。
 動態モデルなら、自由に育てて、その弊害が現れそうになったときに厳しくしつける。そしてまた自由にしつけるといった繰り返しになるだろう。

 大事なのは、一つの理念や方針が絶対的に通用すると信じ込まないことである。そんなものがあれば長い歴史の中でだれかが見つけていて、組織づくりでも子育てでも悩む人はいなくなっているはずだ。まじめな人はとくに絶対的な真理を追究しようとする。それはそれで大切なことだが、そのためには柔軟性を取り込む別の要素も加えなければならない。

(2010/11/2)
  1. 2010/11/02(火) 09:24:04|
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サラリーマン下克上の時代

 会社の従業員にアンケートをとると、ちょっと背筋が寒くなることがある。自由回答欄には、エリート層への反発、そして彼らを優遇する会社への不満がたくさん述べられているのである。もちろん声の主は、いわゆる一般職や、非正社員、低学歴者などのノンエリートたちだ。

 以前はこんなことはなかった。なぜ、エリートへの反発、不公平感がこれほど広がったのだろうか?

 最大の原因は、拙著 『「不良」社員が会社を伸ばす』 (東洋経済新報社、2010/10)で詳しく述べたように、求められる「能力」「意欲」の質が今、根本的に変化しているためである。

 実力がものをいう自由業・自営業の世界や一部の新しい企業では、これまで日の当たらなかったノンエリートたちのなかからほんとうに優秀な人材が続々と台頭する一方、かつての「エリート」たちが居場所を失っている。
 私もこの年になっていろいろな同窓会に出席する機会が多くなったが、元気があって羽振りがよいのは昔はあまり勉強できなかった(しなかった?)者で、かつての優等生はどちらかというと影が薄い。

 そして「エリート」たちが裸の王様になったのは、ノンエリートたちが彼らの正体を知る機会が増えたためではなかろうか。
 最近は幹部候補生にも、若いうちに現場を体験させるためノンエリートたちと一緒に仕事をさせる企業が多くなった。また職場に派遣やアルバイトなど非正社員が増えてきた。そのため、「エリート」の仕事能力がノンエリートの自分たちとさして違わないこと、場合によってはむしろ自分たちのほうが実務能力に長けていることを実感したのだろう。にもかかわらず、「エリート」として特別扱いされ、自分たちと待遇も大きく異なるのであれば当然、理不尽な格差・差別だと思うようになる。

 いずれにしても、「能力」と処遇のギャップが明らかになった以上、「エリート」の再定義が必要なことは間違いない。「サラリーマン下克上の時代」である。

(2010/10/18)
  1. 2010/10/18(月) 18:17:09|
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思いこみ

 最近、いろいろなトラブルを目に(耳に)した。渦中に巻き込まれることもある。そこに共通しているのは、思いこみが誤解を招いたり、事態を悪化させたりしていることだ。しかも日頃は冷静沈着な人までそうなるのだから困る。

 人間はだれでも自分の頭で物事を認識し、仮説を立てて行動する。しかし情報不足や解釈上の問題によって、その認識や仮説が誤っている場合がある。たとえ認識や仮説が正しかったとしても、何かその認識や仮説に合致したような情報が入ると、それを検証することなく自分の認識や仮説の枠組みに当てはめて解釈する。すると、曖昧だった認識や仮説は確信に変わる。それがこわいのだ。

 たとえば過去の言動などから、「Aさんは卑怯な人だ」という先入観をもっていたとする。あるいは、「Bさんたちは自分を嫌っているのでは」と疑っているたする。そこへたまたまAさんが自己弁護する発言をすると「Aさんは責任逃れのために嘘をついている」となるし、Bさんが仲間と小声で話し合っているのをみると「自分の悪口を言っている」と完全に思いこむ。しかし第三者として客観的にみていると、その大半は全くの誤解か、誤解の部分が含まれている。少なくとも、偏った一面的な解釈をしている。

 とくに恐いのは、自分の思いこみをあたかも事実であるかのような口ぶりで誰かに話し、相手と思いこみを共有したときである。たいていの場合、自分に共感してくれそうな人に話すので、思いこみが共有される可能性は極めて高い。そうなると、もうどんな弁解に対しても聞き耳をもたないし、たとえ聞いてもそれを自分の仮説を補強する材料としてとらえてしまう。

 それはだれでも陥りやすい危険な心のワナである。だれより理性と冷静さが求められる検事でさえ、自分の描いた筋書きどおりに証拠をねつ造し、上司もそれを隠すといった過ちを犯したではないか。

 では、どうすればそれを防止できるか?

 とりあえずは、自分の描いている仮説とまったく異なる仮説を立て、それに当てはめて物事や情報を解釈してみるべきだろう。

(2010/10/3) 
  1. 2010/10/03(日) 09:04:41|
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「苦にするな嵐のあとに日和あり」

 敬老の日を前に、京丹後市丹後町に住む男性長寿日本一の木村次郎右衛門さん(113)が、こんな座右の銘を披露したそうである(2010/9/13j毎日新聞)。
「止まぬ雨はない」「明けぬ夜はない」とか、「禍福はあざなえる縄のごとし」といった諺と同じような意味だが、人生経験が日本一長い人の口から聞くと実に重みがある。
 客観的に良いことと悪いこと、幸と不幸が交互にやってくると考えるのは無理がある。むしろ幸と不幸、快と不快は相対的なものだと考えた方がよい。極端な例をあげるなら、末期癌で苦しんでいる人は痛みが和らいだだけで幸福感を味わうだろうし、すべてに恵まれた人は体重が1キロ増えたことも悩みの種になる。幸福そのものが退屈で、むしろ小さな不幸を求めるかもしれない。
 私は小学校3年生のころから、そのことを考えて無気力になったことがある(今でもそれから完全には抜け切れていないが)。楽しいときも後でその反動くるかと思えばあまり楽しくなくなるし、努力して幸せになっても必ずその裏返しがやってくると考えたら、何もする気がしなくなった。そして、その考えを否定するための命題を探し続けた(とくに哲学を学んだわけではないが)。幸福の絶頂期に急死したら生涯幸福度はプラスになるし、難産で苦しんみながら生まれた子がそのまま亡くなったらマイナスで終わるとか。あるいは、幸-不幸、快-不快の一次元でとらえるのは単純すぎる(たとえば人は自分の不幸を逆に楽しんでいる部分もないとはいえない)とか、そもそも神は人間を公平に扱うとはかぎらない、とも考えた。
 木村翁の言葉は、多くの人を勇気づける。しかし、私のように勇気づけられると同時にアポリアから抜け出す道を断たれたように受け止める人もいるだろう。
 木村翁にはもっともっと長生きして、人生の「正解」を教えてもらいたいものだ。

(2010/09/14)

テーマ:社会ニュース - ジャンル:ニュース

  1. 2010/09/15(水) 12:30:58|
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「片手間」はよくないのか?

 書店のレジに高校生くらいの若者がやってきて、漫画本をポンと放った。なぜ、もっとていねいに差し出せないのか?
 彼らはズボンを腰までずらし、バイクに乗るときもヘルメットを後ろに吊している。若者独特のテレと見るべきだろう。
 ではなぜテレるのか? おそらくまじめにやっていると自分の内面を覗かれるようで怖いのである。素の自分を見られることに対するこの年代特有の恐怖心だ。だからわざと、「心ここにあらず」を装う。

 先月出版された拙著『「見せかけの勤勉」の正体』にはかなりの反響があった。大部分は「納得できる」というものだが、なかには異論もある。そのほとんどは「管理は片手間で」に集中している。私もそれは予想していた。
 これは私の想像だが、「片手間」というと上に書いた若者の一見ぞんざいな態度のようなものを思い浮かべるのだろう。しかしほんとうに「片手間」だったり、「心ここにあらず」だったらあのような態度をとるだろうか? ズボンのベルトはウエストで締めたほうが歩きやすいし、ヘルメットはまともにかぶるほうが楽だ。若者があのような態度をとるのは、逆に周りの目を過度に意識している証拠である。それを意識していないように見せたいからそうするのだ。
 それは大人だって同じだ。家庭でも組織のなかでも、乱暴な態度をとったりトラブルを引きおこしたりする人は、たいていが入れ込みすぎている。そこが一番大事だと思っているから譲れないし、相手に過剰な期待をかけ、余分な干渉をしてしまう。ときには妄想もわく。
 その点、ほかにもっと大事な心のよりどころがある人は、過剰な期待も余分な干渉もしない。トラブルに巻き込まれたくないので身を慎み、丁重な態度をとる。そして相手から尊敬される。周りから「あの人は大人だ」といわれるのは、たいていが生きがいをそこに持ちこんでいない人だ。

 もちろんそれも程度ものだが、「熱意」や「誠意」ばかりが求められ、お節介が過剰気味なのが今の日本。「片手間」の効用にもっと注目してもよいのでは。

(2010/7/3)
  1. 2010/07/03(土) 10:57:27|
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「見せかけの勤勉」の正体

 ゴールデンウィークの真っ最中だ。しかしデパートやスーパー、それに行楽地などはかき入れ時だ。連休だといってのんびりしている人は全体からみると一部に過ぎない。

 昔から指摘されているとおり、日本人ほど長時間、休みも取らずに働く国民は少ない。この不況下でも正社員の労働時間はけっして短くなっていない。先日、大教室の授業で学生たちに訊いてみた。「不況に入る前と比べてお父さんやお母さんの帰宅時刻はどう変わったかか?」と。すると、「早くなった」という者より「遅くなった」という者のほうが明らかに多かった。

 私は海外のいろいろな国の企業を見て回っているが、どこの国でも残業は例外的にしか行わないし、有給休暇は全部取得する。また働きぶりをみても、日本人のほうがはるかに勤勉である。

 しかし、見た目だけではわからないものだ。最近発表された各種の意識調査によると、日本人の仕事に対する「熱意」、「やる気」、それに仕事に対する満足度は国際的にみてきわめて低い水準にある。『世界でいちばんやる気がないのは日本人』(可兒鈴一郎)という本があるが、それがまんざら誇張ではないことがわかる。
 熱意ややる気だけでなく、労働生産性、国内総生産、国際競争力といった指標も急降下している。

 見た目の勤勉さとほんとうのやる気、仕事の成果との間に、なぜこれほど大きなギャップが発生したのか?
 そのナゾを解かないことには、社員のやる気も生産性も上がらない。また労働者は疲弊し、国力は低下するいっぽうだ。ガンバリも単なる自己満足で終わってしまう。というより、その「ガンバリ」のなかにナゾを解くカギが隠されている。

 日本人のやる気を奪っているものは? 負のスパイラルから脱却するには?
 それを解明してみた。

◆拙著『「見せかけの勤勉」の正体』PHP研究所、2010年5月刊。

(2010/5/1)
  1. 2010/05/01(土) 13:44:17|
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コミュニケーション

 大学生の就職内定率が急落している。「新卒」扱いしてもらうために留年する学生も増えている。一方では、就活対策として自己アピールの方法などコミュニケーション能力を高める講座がはやっているそうだ。
 そこまでしなければならないのかと思う人もいるだろう。だいじなのは思考力や専門知識であって、コミュニケーションはそれを伝達する手段に過ぎず、運転免許のようなものだと考えている人もいる。私もかつてはそうだった。けれども最近は、それが間違いではないかと考えるようになった。
 私たちは仕事においても、ふだんの生活でも、命に関わるほど大切なことでないかぎり人間関係や成り行き、感じのよさといった必ずしも合理的でないもので決めているのが現実だ。いや、命に関わる問題だって例外ではない。たとえば重病にかかり医療の質が生死を左右する場合でも、セカンドオピニオンを求めたり、最高の医師を探したりする人は多くない。転院の煩わしさや担当医との人間関係などが頭から離れず、適当な理由をつけて自分を納得させてしまう。
 日常の仕事や生活ならなおさらだ。企業が社員を採用する際、面接の担当者は相手がどれだけ優秀か、自社に貢献するかより、好き嫌いやフィーリングを重視するかもしれない。商談や取引も、こまめに連絡を取り誠実な対応をするかどうかで決まることがある。
 つまり、内容が「主」、コミュニケーションが「従」という常識とは違って、実際はむしろその逆のケースが多いのではないか。
 また、積極的に自己アピールするうちに態度や行動が前向きになったり、コミュニケーションの中で思考が練られたりするものだ。コミュニケーションが内容を変えるわけである。
 そう考えたら、私たちはコミュニケーション能力を磨くのにもっと投資してもムダではないはずだ。

(2010/3/31)
 
  1. 2010/03/31(水) 11:46:27|
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民主主義のパラドックス

 私は自由主義や個人主義は好きだが、民主主義はあまり好きではない。というか、絶対的には信用していない。その理由は、民主主義そのものには手続き的な価値しかないこと、そして手続き的な価値にも対立や矛盾を含んでいるからである。
 第一に、民主主義と自由主義や個人主義とはしばしば対立する。第二に、民主主義そのものが内部矛盾を抱えている。
 第二の問題は、民主主義のパラドックスと言い換えてもよいだろう。たとえば国民の顔色ばかりうかがい、移ろいやすい世論におもねる政策をとっていたら、結局は国民の支持を失う。単に世論を追いかけるだけなら政治(家)はいらない。投票マシンさえあればよい。
 いくら国民が主権者だといっても、一人ひとりの国民はどんな政策がベストだとわかっているわけではない。選挙だって、それほど深く考えずに投票している人が多数いるのが事実だ(そのことを否定するなら空疎な建前論に陥る)。まして一人ひとりの選択、あるいは人気のある政策を合成すると、思いもよらない結果が出ることもある。だからこそ、すべてを掌握したうえで国民が納得するような政策を示し、実行するリーダーが必要なのである。
 「マニフェスト」「政治主導」を看板に掲げているにもかかわらず支持率低下に歯止めがかからない政権は、このパラドックスを思い知ったのではなかろうか。

(2010/3/16)
  1. 2010/03/16(火) 21:49:16|
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「アンチ巨人」も巨人ファン

 私が本を出したり新聞や雑誌に原稿を書いたりすると、ブログや雑誌などでそれを批判する(してくれる)人がいる。正直なところ、私はそれをありがたいと思っている。批判されるのはそれだけ注目してもらっている証拠だし、批判の内容はつぎに執筆する際の参考にもなる。
 もっとも私の場合、批判的なコメントは全体のせいぜい数%だから歓迎できるのかもしれない。
 ベストセラーをたびたび出すある人が、こう述べていた。著書の実売部数が数万部くらいまでだと読者の大半は著者のファンだが、10万部を超えると批判的な読者が急増するそうだ。
 これはベストセラー作家にかぎった話ではない。たまたま自分の名が世間に知られると、情報化社会では四方八方からさまざまな声が届く。
 たいていの人は、見ず知らずの人から批判されたりけなされたりした経験を持っていない。免疫がないので、匿名の批判者が急増すると冷静さを失う。そして、なかには感情的に反論する人もいる。それが火に油を注ぐ結果となり、自分のブログが炎上したり攻撃的なメールや手紙が殺到したりすることもある。そうなると精神的にまいってしまい、心身に変調をきたす人もでてくる。おそらく、世の中全体が自分を敵視しているような錯覚に陥るのだろう(実際はだれも他人のことなどそれほど強く意識してはいないのだが)。
 だいじなのは、そのときにどれだけ自分の立場を広い視野から、そして長期的にとらえられるかだ。
 ある調査によると、バンクーバーオリンピックに出場した選手のなかで認知度が最も上がったのは、服装問題でバッシングされた國母選手だったそうである。世間の評判も当初は批判的だったが、今ではむしろ彼に好感や同情を抱いてる人のほうが多いのではなかろうか。スノーボードをマイナーな競技から、かなりメジャーな競技へ引き上げた功労者とも言える。
 「アンチ巨人」も入場料や視聴率に貢献するという点では巨人ファンと同じである。それどころか、アンチ巨人がいるから巨人ファンも増える。そう達観できればよいが、「言うは易し行うは難し」だ。
 幸か不幸か私には無縁の話だが。

(2010/3/11)
  1. 2010/03/11(木) 11:00:07|
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オオカミ少年

 昨日は津波の影響(というより津波警報の影響)で交通手段に乱れが生じた。私の周囲にも、仕事や生活に支障が出たという人が何人かいた。NHKのテレビでも、一日中、津波のニュースばかり放映されていたらしい。
 それぞれの組織が過敏に反応するのはわからないでもない。気象庁としては、万が一予想を上回る津波がきたら、そして人的被害でも発生したら厳しく責任が問われるだろう。JRにしてもNHKにしても同じである。万が一のことがあったら、大きな責任問題に発展し、交通機関などは民事責任だけでなく刑事責任を問われるかもしれない。逆に過剰な反応をしても、その責任追及はゆるい。追及されたら、「万が一のことを考えて」とか、「人命尊重のため最大限の注意を払った」と答えたら許される。
 けれども、それがエスカレートしたら、いろいろな弊害が出る。まず、警報が出されても、どうせ大したことはないだろうと受け止められるようになり、ほんとうに大津波がきたときには甚大な被害が出かねない。また、万が一、億が一のことを考えて過剰反応していては、社会の機能が麻痺してしまう。
 それはもちろん津波の問題にかぎったことではない。かつてインフルエンザの予防接種で副作用が出て、医師か医療機関かの責任が問われたことがあった。そして、それ以来しばらく、学校などでの集団接種が中止された。それによってインフルエンザで死亡する人が増え、副作用で亡くなる人の数の比ではなかったそうだ。
 こうした問題を克服するには、やはり確率論で合理的に判断するしかない。「絶対に犠牲者を出してはいけない」、「万が一のことがあってはいけない」というのは心構えとして正しいが、それもやはり他の利益との均衡という限界がある。極論だが、絶対に事故があってはならないのなら自動車もバイクも禁止するしかない。「許された危険」という概念を広く解釈してみてはどうだろうか。

(2010/3/1)
 
  1. 2010/03/01(月) 17:43:58|
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「清濁併せ呑む」は死語に

 「最近、太っ腹な公務員が少なくなった」。役所の現場に詳しい学者が、こう語った。
 いわれてみればたしかにそうだ。教員や警察官などを含め、まじめで人当たりがよくなった反面、個性や迫力が消えた印象は否めない。

 役所といえば古い日本的組織の代表のようにいわれるが、同じように「古い」日本的組織に大相撲の組織(日本相撲協会)がある。大相撲でも、今や外国人力士を除けば個性的で魅力的な力士は少ない。言葉は悪いが、まじめなお坊ちゃんが相撲を取っているといった印象だ。

 これは、日本社会のバランス変化を象徴しているように思える。
 私はこれまで「承認」について、何冊かの本を書いてきた。その中では、日本の社会・組織が人間の個性や突出した能力・業績などをたたえる「表の承認」より、序列や分をわきまえ、規律や和を乱さないことを重視する「裏の承認」に偏っているとたびたび指摘した。

 ただ、どんな組織や社会でも「裏の承認」だけでは衰退してしまう。そのため伝統的な日本の組織・社会では、うまく「表」と「裏」のバランスが保たれてきた。

 役所で大切なのは本音と建て前の使い分けであり、出世するのは「清濁併せ呑む」タイプだといわれた。ところが今のご時世、一滴でも濁ったものを呑んだら即アウトだ。大相撲でも、無類に強いが破天荒なタイプの力士は「品格」の名の下につぶされてしまう。
 オンブズマン、横綱審議会、再発防止委員会、等々は近年新たに登場し、設置されたものだ。その人たちの努力と意気込みは認めなければなるまい。しかし、それらの制度や組織がマスコミの力を借りてあまりにも大きな威力を発揮しすぎたとき、「表」と「裏」のバランスが崩れる。

 行きすぎた「裏の承認」の厳しさにブレーキをかけるのは、効率、生産性、競争、市場といった組織の外にある要因である。
 たとえば民間企業なら、生産性を上げ、競争に勝ち抜くため、品行方正なだけの者は淘汰され、自ずと「表」と「裏」のバランスが保たれる。ところが役所のように業務が独占的で効率性や生産性に絶対的な基準がない組織では、まじめで人当たりがよいだけの人間ばかりになってしまう恐れがある。
 相撲にしても、絶対的な強さの基準がないので力士の力が全体的に低下してもわからない。これが野球なら、ピッチャーの球速やバッターの打球の速さ、飛距離などに力の低下が表れる。だから、まじめなだけの野球選手によって球界が塗り替えられる可能性は低いのである。

 役所や角界だけではない。ほうっておくと、日本の組織や社会は「裏の承認」に偏る。とくに今はそういう時代だ。日本の風土や伝統、それを広い視野で、そして深く掘り下げて見ないと、よかれと思った改革が「産湯とともに赤子まで流してしまった」ということになりかねない。

(2010/1/29)
  1. 2010/01/29(金) 14:34:41|
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浪人生へのワクチン接種と地方分権

 今日の新聞によると、沖縄県で余った新型インフルエンザのワクチンを浪人生に接種しようとしたところ、国から「待った」がかかったそうだ。浪人生は接種対象とならない「健康な19~64歳」に該当するので接種が認められないのだという。
 これも、地方分権の問題を考える格好の材料である。
 一見すると国の対応は杓子定規すぎるように思える。浪人生も同じ受験生なので現役生と同等に扱うべきではないか、という意見もある。
 たしかに、全国の浪人生に接種を認めるならそれもいいだろう。また現実にありえない話だが、沖縄県の浪人生が県外の大学を受験しないのなら問題ない。しかし実際の受験は県境を越えて行われる。そうである以上、沖縄県の浪人生だけ接種を認めるのはやはり不公平だ。
 忘れてならないのは、入試は教育ではないということだ。教育なら各地域が独自の取り組みをしてレベルの向上を競うというのもよかろう。しかし入試は言ってみれば一種の必要悪であり、それを過熱化することに意味はない。しかも典型的なゼロサムゲームである。仮に沖縄県の浪人生に予防接種をすれば、県外の浪人生からは「自分たちにもしてくれなければ不公平だ」との声があがるだろう。
 入試以外にも同じようなことはたくさんある。分権と平等。何度も言っているように、これは大きなテーマである。

 
(2010/1/15)
  1. 2010/01/15(金) 20:45:32|
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挨拶

 いささか品の欠ける話題を一つ。

 病院の待合室で順番待ちをしているとき、スーツ姿の来客がスタスタと前を横切って診察室に入る。製薬会社の営業に携わっているMRである。待たされる身からは、たとえ数分でも待ち時間が増えると思うとイライラする。そこで彼らが病院を訪ねたとき、待合室にいる人にひと言「おはようございます」とか、「失礼します」と挨拶したら、それだけでイライラも緩和されるはずだ。それは製薬会社や病院のイメージアップにもつながる。だから私は製薬会社に就職する学生にも、就職したら挨拶を心がけるよう助言している。
 些細なことかもしれないが、人間関係を良好に保つうえでやはり挨拶は大切だ。それは、挨拶が相手の存在を認めることだからである。病院を訪ねてくるMRは医師や事務員は認めても、患者には迷惑をかけているにもかかわらず、その存在をまったく認めていないわけである。
 けれども人は、自分の存在を認めてほしくない場合がある。
 今朝、私は仕事で大阪のビルに行った。手洗いは掃除中で、中に入ると掃除をしている女性が笑顔で「おはようございます」と挨拶する。狭い手洗いだけに何となくバツが悪い。そのうえ丁寧なことに、出るときには「失礼いたしました」の言葉をかけられた。こちらは恐縮し「お邪魔しました」と答えたが、無視したほうがよかったのだろうか、と考えてしまった。
 やはり人間には、認めてほしいときと無視してほしいときがある。

(2009/12/14)
  1. 2009/12/14(月) 16:40:46|
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不満の矛先

 病院関係者によると、新型インフルエンザの接種をめぐって、病院を訪れる人たちだけでなく病院関係者の間でもちょっとしたいさかいが起きているそうである。「なぜ私にはワクチンを打ってくれないのか」「とにかく黙って打ってくれ」「あなたは接種してもらったからいいけど・・・」というような声があちこちで聞かれるという。
 接種を受けられる人と受けられない人を分ければ、当然、その線引きをめぐって不満が出てくる。たまたま今回の新型インフルエンザは弱毒性らしいのでまだましだが、仮に強毒性で罹患者の致死率が高かったらどうなるか。政府が決めた一方的な線引きではだれも納得しないだろう。
 もう一つ、対立の火種がある。「子ども手当の実施」と「配偶者控除の廃止」だ。内容の是非はともかく、私が疑問に思ったのは、なぜわざわざ「配偶者控除の廃止を財源にして・・・」と両者を結びつけ、国民の利害対立をあおるようなことを政府が言い続けるのかである。両者を結びつけなければ無用な対立は起きないはずだ。それをあえて結びつける様子は、むしろそれをあおっているようにさえみえる。もしかすると不満の矛先を政府に向けさせないためではないかとか、国民が団結しないほうがつごうがよいのでは・・・などとついつい勘ぐりたくなる。
 京都はそろそろ底冷えがする季節。気持ちまで寒々としてくる。

(2009/11/21)
  1. 2009/11/21(土) 15:47:51|
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校則とマニフェスト

 どこの学校にも校則がある。その校則はだれが、どんな手続きで定めたのだろうか? 
 おそらく学校設立時に、ほかの学校の規則を参考にしながら短期間に決めたのではないか。しかし、いったん施行されたら、その手続きうんぬんの話は表に出ない。生徒には「校則を守ると約束して入学したのだから・・・」という理屈が突きつけられ、義務教育でなければ「いやなら辞めろ」という言葉まで飛びだすこともある。
 選挙時に掲げたマニフェストを「国民との約束」として押し通す新政権の姿勢にも、どこか共通したものがある。政府としては、実行しなければ「選挙用だったのか」とか、「やっぱり何党でも同じで現実の壁は厚い」という声が返ってくるのを恐れているのだろう。目の前にはつぎの選挙が控えているし。
 しかし、マニフェストに掲げられている各項目は、その一つひとつが国民と議論を重ねたうえで練り上げられたものばかりだろうか? かりにそれが不十分だったとしたら、選挙での信任を錦の御旗にして押し通そうとするのは無理がある。下手をすると、独裁政治と変わらなくなってしまう。
 そもそも選挙の争点が一つでない以上、たとえ選挙で多数の議席を取ったからといって、そこで掲げられたことのすべてを国民が支持したということにはならない。マニフェスト選挙が定着するに際し、真剣に考えなければならない問題である。

(2009/10/1)

 
  1. 2009/10/01(木) 09:04:10|
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世論はだれがつくるか

 世論は一部のものによってつくられるのだとつくづく思う。
 今日のNHKニュースでは、今回の衆院選挙に関する世論調査の結果が報じられていた。民主党が圧勝した原因はなにかと質問したところ、「自民党の政治への不満」が52%で最も多かったという。答えるほうも答えるほうだが、訊くほうも訊くほうだ。一般の有権者にそんなことがわかったら、専門家はいらない。
 NHKだけではない。他の報道機関も同じような意識調査をやり、その結果を大きく報じている。そして、その数字が独り歩きする。
 では、このように回答した人は、何によってそう判断したのか? 
 たいていの人は、マスコミがそう言っていたからだろう。要するに、マスコミが適当に敗因を考えて報道する。それを見た国民が正しい情報であるかのように受け取り、逆にマスコミから質問されたときにはその情報を返す。それを受けてマスコミは、意識調査によって権威づけられた数字を大々的に報じる。国民を利用したマスコミの一人芝居ではないか。
 そもそも、意識調査にはなじむテーマとなじまないテーマがあることを知っておかないからこんなおかしなことになる。

(2009/9/7)

テーマ:選挙 - ジャンル:政治・経済

  1. 2009/09/07(月) 21:59:04|
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仕事第一主義の落とし穴

 海外へ企業調査に行くと、オフィスでは社員の集中度が高く、効率的に働いているのに感心する。労働生産性の国際比較でも、欧米諸国は日本より高い。ところが意識調査では、日本人には「仕事第一」が多いのに対し、欧米人は「家庭第一」が圧倒的多数派だ。欧米人が「仕事第一」でないことは、彼らの言動などからもはっきり読み取れる。にもかかわらず「仕事第一」の日本人より生産性が高いのだから、日本人としては立つ瀬がない。
 日本人の「仕事第一」が本心から出たものかどうか疑わしいが、とりあえず額面どおりに受け取ることにしよう。
 実際、仕事が好きで仕事を生き甲斐にしている人で、成果があがらない人は少なくない。彼らをみていて、もしかすると仕事が好きで「仕事第一」だから成果があがらないのではないか、と思う。
 白状すると、実は私もそうだ。私は本の原稿を書いているときがいちばん充実感を覚える。苦しみながらも、反面では楽しんでいる。逆に、書き終えて次に書く本がないとき、何ともいえない空疎感に襲われる。そのため、振り返ってみると執筆の途中でしばしば中断したり、原稿をいじくり回したりする癖があるようだ。あれも書きたい、これも入れたい、という思いを抑えきれず、結果として内容を落としてしまう。逆に、時間に追われていて一気に書いた原稿は、自分で言うのも何だがすっきりしたものになっているようである。
 大相撲の世界では、四つに組んで自分から攻めず、長い相撲を取る力士を「あいつは相撲が好きだ」というが、それと通じるところがある。
 仕事が好きな日本人は、サッサと片づけると仕事が無くなるので、ダラダラと非効率な働き方をしているのかもしれない。仕事の生産性を上げるため、日本人はこの際、「仕事第一主義」を捨ててみたらどうだろう。でも、その前に家庭をもっと楽しく、居心地のよい場所にしなければならないか。
 
(2009/8/31)
  1. 2009/08/31(月) 03:45:36|
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厳罰とポピュリズム

 飲酒運転をした地方公務員に対する懲戒免職の処分が「過酷すぎる」という理由で、取り消しを命じる判決が相次いでいる。
 飲酒運転の取り締まり強化と厳罰化には私も賛成である。しかし「公務員なら理由の如何を問わずただちに懲戒免職」というのは、やはり「厳しすぎる」と思う。
 第一に、懲戒免職だとクビになるだけでなく退職金も取り上げられるが、退職金は給料の後払い的な性質を持つ。したがって、よほど悪質な罪を犯さない限り、それを受け取る権利を奪うことはできないはずだ。その「悪質」さを判断する基準は、社会通念や公平性である。自営業や自由業なら、かりに飲酒運転で検挙されても当然ながら職を奪われることはないし、企業でも懲戒免職といった重い処分を科すところは少ない。だとしたら、公務員だけを懲戒免職にするのはバランスを失するといわざるをえない。
 第二に、当たり前のことだが、公務員だけを厳しく処分しても問題の解決にはならない。公務員への厳罰が、社会全体に波及するとも思えない。
 そして、私が反対する一番の理由は、厳罰化の背景にポピュリズムの臭いを強く感じるからである。「公務員は市民の模範になるべきであり、それが飲酒運転をするとは言語道断で厳罰は当然だ」という主張は、確かに一般受けする。しかし、「財政が厳しいときに公務員の給与カットは当然」というのと同じで、冷静に考えてみれば論理に無理がある。警察官や交通安全課の職員ならともかく、職員一般に「模範たるべき・・・」というのはどうか。受け取り方によっては、「公務員のほうが人格的に高潔である」という官尊民卑の思想だといえなくもない。
 いずれにしても、安易なポピュリズムに与することなく、本当の正義を守るのが裁判所の役目であり、その点で一連の判決を支持したい。
 いうまでもなく、飲酒運転の撲滅は国民全体で取り組むべき課題なのである。

(2009/7/19)
  1. 2009/07/19(日) 11:56:05|
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タダほど恐いものはない

 日曜日に庭木の剪定をし、切り枝を今朝のゴミ回収に出した。以前は枝が袋からはみ出していると持っていってくれなかったが、ゴミ回収が有料化された数年前からは多少はみ出していても持っていってくれる。わずか数十円の負担ですむのだからありがたい(そう思わせるためにサービスを良くしているのかもしれないが)。
 ところで、私はホテルや共済の宿で朝食をとりながらいつも感じることがある。宿によって朝食は別料金のところと、「朝食はサービス」をうたっているところがある。客の態度を見ていると、食事代を支払っているところではふんぞり返っていて店員に挨拶もしない人が多い。いっぽう、「朝食はサービス」というところだと客の多くは遠慮がちに食事をし、すんだら店員に「ごちそうさま」と礼を言う。逆に「食べさせてやっている」という態度がありありの店員を見かけることもある。明らかに店(店員)と客との上下関係が違う。実際は代金がホテル代に含まれているか別払いしているかの違いだけなのに、人間の心理はおもしろい。
 貨幣の発達によって人間が人格的な従属関係から自由になったのはジンメルがつとに指摘していることだが、たしかに「ただでもらっている」と思えばだれでも卑屈になってしまう。その心理を利用しようとする人がでてくるのもまた当然だろう。定額給付金にしても高速道路の1000円乗り放題にしても、元手は自分たちの納めた税金だから、ありがたく思う必要はないのだが。

(2009/6/16)

 
  1. 2009/06/16(火) 10:58:07|
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「職員より住民」はどこまで通用するのか?

 昨日行われた阿久根市長の出直し選挙で、市議会や市職員と対立する候補が再選された。ここのところ、市民や住民の利益を最優先し職員と対決姿勢を示す首長がつぎつぎに誕生している。 
 首長が自分の利益を考えた場合、選挙で当選することが第一だから選挙民の利益を最大限に尊重するのは当然である。その点では、前回このブログに書いたように首長が地方分権推進の旗を振るのも、まったく同じ合理的行動だといえよう。
 けれども私が疑問に思うのは、このように単純で直線的な行動がなぜ今まであまりとられなかったのかということである。それが通用するとわかっていたら、歴代の首長も当然、職員を敵に回してでも選挙民に迎合する姿勢をとったはずである。
 もう一つの疑問は、「行政は市民のもの」という原則は「会社は株主のもの」という原則とたいして違わないのに、なぜ前者はだれからも批判されず、後者は袋だたきにあうのか、である。「株主」が一部のお金持ちをイメージするのに対し、「市民」の方は清廉で一般受けするからなのだろうか。あるいは、会社だと社員を敵に回せば生産性が落ちたり優秀な人材が逃げていったりして結局は株主の支持も失うのに対し、役所では仕事の能率が落ちてもそれほど目立たないし、優秀な職員が逃げる心配もないからだろうか。
 いずれにしても、「自分の存立基盤である選挙民の利益を最優先する」という単純で、かつきわめて功利的な行動原理がどこまで通用するのか見ものである。

(2009/6/1) 


テーマ:選挙 - ジャンル:政治・経済

  1. 2009/06/01(月) 10:22:21|
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分権論議に国民の声が聞こえない

 全国知事会議が何党を支持するか話題になっている。マスコミは知事にばかりスポットライトを当てるし、知事は自分たちこそ国民、住民の利益を代表していると信じ切っている(実際、選挙で選ばれたのだし、そう信じていなければ政治はできないが)。それに対し、国は押されっぱなしで守り一辺倒に見える。
 そこに大事なものが欠けていないか。それは、いうまでもなく国民、市民の視点である。正直に言えば、国民にとって国と自治体の綱引きでどちらが勝とうと直接関係がない。問題は、国民、市民にとってどちらが得か(と言えば語弊がありすぎるなら利益が大きいか)、そして公平・平等かである。
 たしかに東京をはじめ、地元に税金がたくさん落ちて経済力の豊かな自治体は、地方分権が進めば住民の利益にも直結する。しかし、過疎地域をはじめ財政力の劣る自治体の住民にとっては、むしろ中央集権で国に均霑を仰いだ方が利益は大きいはずだ。分権が進めば、個人の責任によらない地域格差がますます広がることはたしかである。
 過疎地域の知事や市町村長の選挙には、「地方分権反対!」を掲げた候補者がもっとでてこないものだろうか(※首長がこぞって分権推進派なのは、おそらく自身の個人的利益・欲求=自らのプレゼンスと権力の拡大 が絡んでいるからだろう)。
 またマスコミには、地方分権について議論する際には、自治体の首長だけでなく、国の代表、そして国民、住民(それも都市と地方の両方)を加えるように要望したい。

(2009/5/20)
 
  1. 2009/05/20(水) 10:18:07|
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「オウンゴール連発」の罪は誰にあるのか

 新潟県の中学校の教頭(コーチ)が、自分のチームにオウンゴールを連発させ、わざと大敗したとして問題になっている。指示した教頭はスポーツマン精神に欠ける行為だとして処分されたらしい。
 おそらく彼は、相手チームの弱点を徹底して突く攻撃と同じような直線的思考でこの戦略をとったのだろう。けれども、その行為だけを取りだしたとき第三者の目にどう映るか、あるいは(マスコミなどの視点から)どう映せるか、というところまで考えが及ばなかった。

 わざと負けるように指示された選手や相手チームの立場からすると、馬鹿にされた気がするのも当然だ。確かに失礼な行為ではある。
 しかし、別の見方をすると、負けた方がよいとわかっていながら勝つためにがんばれというのもなんだかおかしな話だ。野球の敬遠だって、わざとボールを投げて塁に出すのだからオウンゴールと同じではないか。もっと話を広げるなら、受験でよい点を取った方が合格率が低くなるときやがんばって働くほど給料が減るとわかっているときも、「全力で受験しろ」、「がんばって働け」と言えるだろうか。
 いくら選手に「スポーツマンらしく堂々と戦え」と言っても、負けた方が得だとわかっていたら、どこかで手抜きをするかもしれない。がんばっているように見せながら手抜きをする方が、ある意味ではもっとスポーツマンらしくないのではないか。あるいはそんなことを考えた段階でスポーツマンとしての資格を失っているというのなら、世間離れした聖人にしかスポーツはできなくなってしまう。
 そもそも、スポーツマンシップとはいったい何なのか?
 このように考えてみると、今回の出来事で責められるのは、負けるように指示した教頭(コーチ)よりもむしろ、「勝った方が不利になる」という不合理な制度を作った側ではないかという気がする。簡単な話、勝ったチームに対戦相手を選ばせるようにすれば、それですむはずだ。

(2009/4/10)
  1. 2009/04/10(金) 18:39:06|
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ライバル意識か、嫉妬か

 大学3年生の就職活動が今、ピークを迎えている。今年は不況で苦戦が予想されているが、そんな中だけにいっそう良質な情報が必要になる。
 先日、学生に会うと、「○○社は今年、○○大学以外は採らないそうです」と言う。情報源を尋ねると、その会社にいる友人だという。その友人には悪いが、私は「真に受けず挑戦するように」と助言した。
 というのも、毎年、就職活動の時期になると、あの会社は良くないだの、この会社は採用しないだのといったデマが飛ぶ(その証拠に会社で確認するとたいていが根も葉もない話だ)。純真な学生は、まんまとそのデマに乗せられ、少なからず進路を妨害される。デマの発信源はたいていが友人や同級生たちである。残念なことに、親しい「仲間」がそうした誤った情報を意図的に流しているようだ。
 仲間内から良いところに就職する者が出ると面白くないので足を引っぱろうとするのならまだわかる。けれどもよくみていると、妨害が起きるのはそのようなパターンとはかぎらない。むしろ、すでにその会社に入っている者が友人を来させないようにしたり、一流企業から内定をもらった者が同級生が他の一流企業に入るのを妨害したりするケースが少なくない。一般的に言うとそれはライバル意識に属するのだろうが、それとも少し違うような気がする。おそらく、友人関係や同級生仲間といった世間の中で自分だけが「良い会社の社員」でいたい、というエゴなのだろう。
 転職は強い紐帯よりもむしろ弱い紐帯で結ばれたネットワークからの情報で行われることが多い、というグラノヴェッターの有名な研究がある。たしかに大学を含め、転職した人をみると弱い紐帯によるケースが圧倒的に多いようだ。弱い紐帯のほうが有効な理由は、親しい関係だと持っている情報も似てくるのに対し、あまり親しくない関係からは多様な情報が入ってくるからだといわれる。たしかにそれもあるが、「仲間を寄せつけたくない」という心理も大きな要因なのではなかろうか。
 何となく気分が滅入る話ではある。
 デマを流す人に問いたい。自分の信頼を失うことの損失と天秤にかけてみたことはあるか、と。

(2009/3/20)
  1. 2009/03/20(金) 11:46:10|
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序列社会を崩せるか

 日本映画がアカデミー賞の2部門で受賞したのは久々の明るいニュースだ。とくに「おくりびと」は地味な映画だが、それが認められたのはうれしい。今朝は、複合スキーの世界選手権で日本チームが14年ぶりに金メダルを取ったというニュースも飛び込んできた。
 「出る杭は打たれる」日本。それを変えるには、一元的な序列社会を崩すしかないと私は言い続けている。学歴、職業、社内の地位などによって社会全体が一元的に序列づけられている以上、個性的な者や突出しようとする者は足を引っぱられ、たたかれるのである。しかも逃げ場はない。かつて丸山眞男は「一流の洋服屋の方が、二流、三流の政治家や役人や教授よりはえらい社会、それが市民社会」だが、日本は「官僚と庶民で構成されていて市民がいない国」だと述べたが、私もそのとおりだと思う。
 そういえば、昨今の政治家や役人を見ていると、だれも「えらい」とは思わないはずだ。けれども、これだけワイドショーなどで連日取りあげられ、たたかれるのは、逆にいうとまだ彼らが「えらい」という前提に立っているからだし、それが視聴率を稼ぐのも陰で溜飲を下げる「庶民」が圧倒的多数だという証拠ではないか。蛇足ながら、大学教授がそれほどバッシングされないのは、もともと「えらい」とは思われていないからだろう。
 文化、芸術、スポーツなどさまざまな分野で世界的に活躍する人がつぎつぎに現れ、マスコミの役人たたきなどにだれも関心を示さなくなったとき、日本もやっと市民社会を手に入れるし、「認められる」(私のことばを使えば<表の承認>)社会に近づいたことを意味する。

(2009/2/27)

  1. 2009/02/27(金) 09:48:42|
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朝青龍復活優勝と日本人

 横綱朝青龍がみごとな復活優勝を遂げた。あれだけの逆境とバッシングに耐えた精神力には驚嘆させられる。
 朝青龍の業績や相撲ぶりはもちろん、人柄や態度まで含めた丸ごとの人間として、他の国ならおそらく英雄扱いされるだろう。しかし、わが国ではこれから先もおそらく英雄にはなれない。
 個性が尊重される欧米などの社会と、出る杭を打ち異端を排除する日本社会、というように対比させるのはいささか皮相だ。なぜなら、個々人のレベルでは朝青龍にシンパシーを覚える「隠れ朝青龍ファン」は意外にたくさんいるからである。今場所あたりは、それが衣を脱いで少しずつ顔を出しはじめたようにもみえる。文脈は違うが、「裸の王様」の一シーンに似ている。
 思うに、違いの本質は「空気」の濃さにある。マスコミなどで一部の「良識派?」が朝青龍の言動を批判すると、それに相づちを打ち、バッシングに加わらなければいけないような空気が一気に場を支配する。そこがきわめて日本的なのである。
 そして、今の日本ではいくら「功」があっても、一分の「罪」があれば英雄になる資格を失う。そうしたモラル絶対主義は教育の場から政治や行政の場へ、そして産業界からスポーツ界にまで広がってきている。
 だけれども、そこで問われている「モラル」がどれだけほんとうのモラルかは疑わしい。現に、こうした風潮は表層だけのモラリストをたくさん生み出しているではないか。
 そして、完璧なまでに支配していた空気が一気に変わるのも日本社会の特徴だ。「朝青龍がんばれ」の横断幕や声援は、何となくそれを感じさせた。はたして、空気はどれだけ変わるのか。

 それはともかく、近刊『認められる力』(朝日新書)で朝青龍バッシングや「品格」について私見を述べているので、店頭に並ぶ前に「朝青龍引退」という事態にならなくてホッとした。

(2009/1/25)

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  1. 2009/01/25(日) 19:02:52|
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<新刊>『認められる力』の予告

★新刊予告

 『認められる力 -会社で成功する理論と実践-』朝日新書
 2009年2月13日刊行

 就職し、職場で周りから個性や働きぶりを認められる初歩の段階から、組織の中で活躍し昇進していく段階、そして社会的に認められ歴史に名をとどめる段階まで、どんな能力や姿勢が必要か、どうすれば認められるかを説いています。
 前半の[理論編]では具体的な社会現象やエピソードを取りあげながら、日本の社会・組織における承認のメカニズムや特徴を分析し、後半の[実践編]では認められるためのポイント、勘所について説明しています。
 
 これまで私は承認について第三者的に、あるいは<認める側>から書いてきましたが、本書ではじめて<認められる側>から書いてみました。
 編集者によると、「とても読みやすい」そうなので、ぜひご愛読ください。

(2009/1/16)
  1. 2009/01/16(金) 15:58:57|
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何のための教育か?

 全国学力テストの結果を公表すべきか否かで議論が分かれている。公開すべきだという論者は、自治体間で競争し、それによって全体の教育レベルが上がればよいではないか、という考えをもっているのだろう。テスト結果の公開・非公開をめぐる議論は、公立学校で進学のための特別授業を行うことの是非をめぐる議論とも根は同じだ。
 たしかに、そこでいう「教育」が本人の成長や社会の発展・幸福につながるような教育なら問題はあまりない(まったくないわけではないが)。自治体間で競争し、行政も地域もそれを支援すればよいかもしれない。しかし、現実には「教育」の中には受験のための教育が含まれ、それが控えめにみても相当な割合を占めている。受験という定員がかぎられた中での競争は、だれかが合格すればだれかが落ちるという典型的な"ゼロサムゲーム"である。極論するなら、ライバルが4時間しか眠らなければ自分は3時間しか眠らないというように、どちらかが倒れるまでがんばらなければ通らないというのが"ゼロサム"型の競争である。
 そうした激しい競争が当人や社会のためになるなら、それでよいかもしれない。しかし、残念ながら受験勉強や受験で問われる能力をつける「教育」の延長線上には、前述したような本人の成長や社会の発展・幸福につながる「教育」があるとは思えない。逆に、過当な競争に参加しない者が本来の教育を受け、希望する職に就く機会を奪われることにもつながる。
 だとしたら、民間企業ならともかく、公益を目的とする行政がそうした競争をあおったり、競争に勝つことを手助けすることにどんな正当性があるのか。へたをすると、「受験戦争」の弊害を大きくし、また競争の機会格差を広げるのに行政が手を貸すことになるかもしれない。
 現実に行われているのが<何のための教育なのか>を深く追究すべきではないか。そうしなければ、「健全な競争がなぜ悪い」「できる子を伸ばすことも大切だ」という素朴な常識論が独り歩きする。

(2008/12/16)
  1. 2008/12/16(火) 12:10:14|
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「ものを言う公務員」へ

 昔から公務員はたたかれるものだが、最近はとくにひどい。たたかれっぱなしだ。たたかれるのももっともだ、という部分があることも事実だが、マスコミや一部政治家による公務員たたきの中には世論の力を借りた「イジメ」に近いものさえある。それでも公務員がまったく反論・弁明しなければ消極的に認めていると誤解(曲解?)されるし、「イジメ」もエスカレートする。
 バッシングされる公務員の側にはおそらく、何を言っても無駄だという無力感や、「もの言えば唇寒し」で反論すればますますたたかれるという恐怖感があるのだろう。あるいは、おとなしくしていれば嵐は収まると信じ切っているのかもしれない。しかし、このような消極的な態度では公務員の立場はますます悪化するし、国民・市民の信頼も失いかねない。
 そこで公務員の立場から、たとえば自治労などの組合でもよいし、公務員の有志による団体でもよいので、国民・市民に向けて積極的に「発言」することを期待したい。もちろん、単なる言い訳や既得権擁護だけなら、待ってましたとばかりにマスコミなどから袋だたきにあうだろう。そうではなくて、公務員自身が国民・市民の味方であることをあらためて宣言するとともに、民間企業の労働者たちにも連帯を呼びかけることによって<民間対役所>という対立軸を崩していくことである。
 いずれにしても、ねたみやエゴを煽って「作られた強者」をたたくだけでは何も生まれず、やがて共倒れになることは目に見えている。そのためにも公務員には、正すところは正し、主張するところは主張してほしい。それこそが責任ある態度ではなかろうか。

(2008/12/2)
  1. 2008/12/02(火) 10:06:25|
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「原則管理」と「原則自由」の重み

 アメリカやヨーロッパ、それに中国、東南アジアでも街を歩いていると、日本にいるのとはどこか違った空気を感じる。電車に乗っても店に入っても同じだ。それが何かわからなかったが、あるとき気がついた。やはり、自由なのである。人々がそれぞれ、そこにいて生活しているだけで、管理するものの存在が感じられない。たとえ何かが起きたとしても警察も行政機関も制御できないのではないかと、ときどき心配になるが、人々が互いに自己規制し合いながら生活しているので意外と大丈夫なのだろう。
 それにひきかえ日本では、どこへ行っても釈迦の掌に乗っているようで、つねに管理された中で生活している。電車に乗れば携帯の電源を切れだの、男は乗るなだのと命令されるし、店に入れば店員がどこまでもついてくる。そして、だれも従順にしたがうし、いやな顔もしない。それが当たり前になっているからだ。若者たちが闊歩するあの秋葉原だって、例の事件によって歩行者天国は廃止されたが、大きな反対の声は聞かれない。
 欧米や中国などと日本の違いを一言で表現すれば、「原則自由」と「原則管理」との違いではないか。それは働く場にもいえる。欧米などの組織は、自分の仕事をするための場という感覚である。それに対して日本では、まず会社や役所という組織の一員となり、その中で与えられた仕事をする。「原則管理」の象徴が公務員に課されている「職務に専念する義務」である。勤務時間中は職務に専念しなければならず、勤務時間中の自由は「職務専念義務免除」によってのみ与えられる。極端にいうなら、「専念」していれば仕事ができなくてもよいが「専念」していなければいくら良い仕事をしても懲戒処分を受けるわけである。これでは公務員に「気をきかせろ」とか「挑戦してみろ」といっても無駄なはずだ。
 この「原則自由」と「原則管理」、すなわちもともと自由なころから出発し必要な範囲で制約を受けるのと、管理された中から支障のない範囲で自由を認めるのとでは、たとえ同じように見えても大きな違いがある。
 独裁政権で言論の自由や行動の自由が厳しく制限されているところでも、「原則自由」から出発している社会では市民が自分の頭で考えて行動するが、「原則管理」から出発している社会では人々が自由を謳歌しているように見えて、実はいたるところで管理され、「学習された無力感」からくる他者依存に陥っている。日本人の実質より周囲の目を気にする働き方や行動様式、それに減点主義の評価や「出る杭を打つ」風土もそれと関係しているように思える。
 近著でもそのことに触れるつもりである。

(2008/10/18)
  1. 2008/10/18(土) 19:06:30|
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後期高齢者の医療費肩代わりについて

 東京都の日の出町が後期高齢者の医療費を全額肩代わりするという。すばらしい政策と評価する人もあろうが、私にはそこに地方自治の歪みが集約されているように思える。
 第一は、いうまでもなく「なぜ日の出町だけなのか」である。命や健康の大切さは、どこに住んでいようと差がないはずだ。日の出町のお年寄りだって、夕張市のお年寄りだって。それが、たまたま財政力の豊かな地域に住んでいるか乏しい地域に住んでいるかによって、極端に違った扱いを受けるのはおかしい。本人には何の責任もないはずなのに。
 第二に、日の出町では職員の給与カットなどによって医療費肩代わりの財源を捻出したのだという。たしかに首長としては、そのほうが票につながるだろう。しかし、労働基本権を制限された職員の給与を一方的に削って、そのお金を全国でも例のない「医療費無料化」に回すことがはたして正義にかなっているのだろうか。
 私は両方とも、地方自治の歪みを巧みに突いた「地域エゴ」「偽善」の臭いを感じる。
 だから私は地方自治、地方分権には反対なのである。

 けれども誤解しないでほしい。私は地方の人、個人を大切にしたいから地方自治、地方分権に反対なのだということを。

(2008/9/17)
  1. 2008/09/17(水) 18:39:15|
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プロフィール

太田 肇

Author:太田 肇
<ホームページ>
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/

<職業>
「組織学者」としておきます。

<主な研究分野>
組織論
とりわけ、「個人を生かす組織・社会」について

<肩書き>
同志社大学 政策学部・大学院総合政策科学研究科教授
経済学博士

<著書>
◆最新刊 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』(日本実業出版社)

『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)
『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社)
『がんばると迷惑な人』(新潮新書)
『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)
『組織を強くする人材活用戦略』(日経文庫)
『表彰制度』(日本表彰研究所との共著 東洋経済新報社)
『社員が「よく辞める」会社は成長する!』(PHPビジネス新書)
『公務員革命』(ちくま新書)
『承認とモチベーション -実証されたその効果-』(同文舘)
『「不良」社員が会社を伸ばす』(東洋経済新報社)
『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)
『認め上手  -人を動かす53の知恵-』(東洋経済新報社)
『認められる力』(朝日新書)
『日本的人事管理論』(中央経済社)
『承認欲求』(東洋経済新報社)
『お金より名誉 のモチベーション論』(東洋経済新報社)
『「外向きサラリーマン」のすすめ』(朝日新聞社)
『認められたい!』(日本経済新聞社)
『「個力」を活かせる組織』日本経済新聞社)
『選別主義を超えて』(中公新書)
『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書)
『個人尊重の組織論』(中公新書)
『ホンネで動かす組織論』(ちくま新書)
『囲い込み症候群』(ちくま新書)
『仕事人(しごとじん)の時代』(新潮社)
『仕事人と組織』(有斐閣)
『日本企業と個人』(白桃書房)
『プロフェッショナルと組織』(同文舘)

<生活信条>
できるだけ人に迷惑をかけないこと。恩を忘れないこと。

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