太田肇 Critical Essays ”個の視点”

同志社大学政策学部教授 (個人尊重の組織論、モチベーション論)  日常生活のなかで疑問に感じたとき即座に書いたものがほとんどです。不完全な内容や思い違いがあるかもしれませんが、お許しください。

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いじめの芽

 先日、「いじめをなくすにはどうすればよいか」という質問を受けた。学校や職場だけでなく、小は家庭から大は国全体にまで発生している問題だけに、真剣に対策を考えなければならない。

 私は、いじめが起きる最大の原因は「閉鎖社会」にあると考えている。
 第一に、閉ざされた集団のなかでは、悪口、誹謗、中傷が周囲に伝わると、大多数に共有されてしまう。クラスでも職場でも、みんながそれを知っているとなると、いじめられた人は居場所がなくなる。
 第二に、閉鎖的な集団ではメンバーが長期間固定されるため、そこには非公式集団のリーダーが生まれ、それを中心に序列が形成される。すると、リーダーに従わない者や序列を乱す者はいじめられる。

 集団が外部に開かれていたら、それは防げる。
 たとえば小中学校でのいじめは深刻だが、高校、大学にいくと急速に減る。高校に入ると生徒の関心はクラスや学校の内側より、受験など外部に向く。学校のほか、予備校に通う者も増えてくる。そうなると、たとえ誹謗・中傷が発信されても、相手や周囲の者がそれに関心を抱かない。また、個々人が複数の集団に対して多元的に帰属するようになれば、誹謗・中傷も限定された範囲にしか共有されない。しかも義務教育ではないので、いじめに耐えられなければ辞めるという最終手段も残されている。大学に行けばクラスそのものがなく、固定的な集団が形成されないので、いっそういじめは起きにくい。
 ところが大学院に進学すると、そこでは再び閉鎖集団になる。「研究室」でのいじめやパワハラがしばしば報じられるのはそのためだ。

 したがって、いじめを防ぐには、集団・社会を開かれたものにしなければならない。学校ではクラス替えをもっと頻繁に行い、転校や生徒の交流も進めたほうがいい。部活ももっとオープンでだれでも参加できるようにし、複数の部への掛け持ちも奨励する。職場では正社員以外に派遣や臨時、アルバイトを増やすなど「ダイバーシティ」化を推進する。境界が不明なネットワーク型組織を取り入れるのもよい。家庭でも夫や妻、子の関心を外に向けさせれば、DVもなくなるだろう。

 このように考えたら、「クラスの団結」「チーム一丸」「社員の一体化」「日本は一つ」といったキャッチフレーズの背後に、実は危険な「いじめの芽」が潜んでいることがわかる。団結や一体化には良い面ばかりではなく、危険な面もあることを多くの人に認識してもらいたい。

(2011/6/20)
  1. 2011/06/20(月) 09:39:24|
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公務員改革と嫉妬心

 市長選挙にA、B二人の候補が立候補したとしよう。A候補は「市民の所得は上げられないが、職員の給与を5%カットする」、B候補は「市民の所得を5%上げる代わりに、職員の給与は2倍に上げる」とそれぞれ公約に掲げた。
 どちらが当選するだろうか?
 住民の生活が極端に苦しければともかく、普通だったらA候補が当選するのではないか。
 合理的に考えれば、B候補の公約のように市民生活をよくしてもらった方がよいに決まっている。しかし、多くの市民にとっては職員の給与が2倍になり、贅沢な生活をするのを見せつけられるくらいなら、自分の生活が多少苦しいのをがまんするほうがマシなのだ。とくに市町村のような基礎自治体だと、近隣、親戚、同級生など身近なところに職員がいる。だから嫉妬心を抑えることは難しい。
 「貧しきを憂えずして、均しからざるを憂える」というが、これは公務員改革においてもやっかいな問題だ。職員に能率を上げてもらうためには待遇をよくしなければならないが、待遇をよくすると住民(国民)が反発するというジレンマがあるからだ。その段階で、合理的な議論は行き詰まる。結局、仕事の能率やサービスの低下には目をつぶっても、住民の嫉妬を解消するため、「給与の2割カット」といった非合理な選択をしなければならなくなる。
 表面化しにくいだけで、公務員改革にかぎらず、人間の嫉妬心が改革や施策の障害になっているケースが実は多い。嫉妬に対していかに対処するか。「嫉妬学」といった研究があってもよさそうだ。

(2011/6/16)
  1. 2011/06/16(木) 14:09:02|
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五月病?の日本

 毎年、ゴールデンウィークを境に学生の行動が大きく変化する。新入生でごった返していた食堂もキャンパスもゆったりとし、教室には空席が目立つようになる。そして学生たちは気の合った仲良しグループをつくり、集団で行動するようになる。集団に入れない学生は、自ずと孤立し、なかには登校しない者もでてくる。
 ただ、「仲良し」グループといっても、ほんとうに仲がよいとはかぎらず、とりあえず属していたら安心できる集団といった程度の意味しか持たない。こうした集団と孤立者の存在そのものを「五月病」の中に含めることもできそうだ。

 しかし、「五月病」を大学の新入生だけの問題としてとらえてよいものだろうか?
 それは目標を失った社会が陥る現象のように思える。
 中国や韓国といった発展著しい社会を見ていると、業績をあげる企業や活躍する人はたたえられ、社会はそれを支援する。人々の関心は外を向いているので、他人の揚げ足をとったり重箱の隅をつついたりすることは少ない。というより、そんなことをする人が冷たい目で見られる。
 一方、発展や成長という目標が後景に退いているわが国では、人々の関心が内側を向く。受験という目標を失った学生たちと同じである。
 先月のブログにも書いたとおり、いくら業績をあげて社会に貢献していても、ちょっとしたミスを犯せばアウトだ。空気を読まない言動や「不謹慎」な行為、多数派に同調しない人たちは、正義の名を借りた嫉妬やルサンチマンの餌食になる。
 震災という大きな国難を抱えた今、こんなことを続けていれば、経済も社会も右肩下がりの勾配がいっそう急になるに違いない。
 
 どうすればそこから脱却できるか?
 ヨーロッパの国々を見てもわかるように、成熟社会で衰退にブレーキをかけるのは「健全な個人主義」だろう。国民の連帯も、健全な個人主義があってこそ可能になる。それがないところでの「連帯」や「絆」は、単なるもたれ合いやくびきになってしまう。健全な個人主義と「有機的連帯」(デュルケーム)こそが復活への扉を開くと私は信じている。

(2011/5/11)
  1. 2011/05/11(水) 10:37:35|
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震災対応にみた<裏承認社会>の強みと弱み

 先週から今週にかけて海外の要人たちに会う機会があった。そのたびに聞かされたのは、震災に対するお見舞いの言葉に加えられたつぎのような感想である。それは、被災者の秩序正しい行動と救援や支援に当たった人たちの努力と勤勉さ、対照的なリーダーたちの対応のまずさである。
 
 これは彼らの情報源が、日本国内からマスコミによって伝えられる二次的情報にかぎられているためかもしれない。実際、わが国のマスコミもおおむねそのような論調だし、世論も同様の評価だ。

 今朝の日本経済新聞「経済教室」で教育学者の苅谷さんも、現場を支える人たちの献身ぶりと指導的立場に立つ人々の対応のまずさ(「底」の浅さ)を指摘している。苅谷さんによれば、それは初中等教育への称賛と大学教育の凡庸さという国際的な評価とも符合する。つまり、大衆教育は健全だが、リーダーを育てる大学の教育機能が劣化しているというわけだ。

 現場の人たちの秩序正しい行動や献身ぶりと、リーダー層の「底」の浅さ。こうした評価には私も賛同する。ただ、それをもたらした原因については、ちょっと違った見方もできるのではないか。

 私はこれまで、日本の社会・組織では自発的な行動や個性の発揮、秀でた能力や業績をたたえる「表の承認」より、実際は秩序や序列を守り、和を乱さないことの方を求める「裏の承認」が支配しているとたびたび指摘してきた(拙著『承認欲求』、『お金より名誉のモチベーション論』など)。

 今回の震災後における日本人の言動にも、それがはっきりと表れている。非常時でも礼儀をわきまえ、秩序正しく行動する姿は<裏承認社会>の「光」の部分である。それを評価し、たたえるべきなのは当然だろう。
 しかし一方では、リーダーたちがマスコミや世間の批判を恐れて及び腰になり、信念や自らの判断に基づいて果敢に行動することができなかった。そもそも、平素からそのような判断や行動をとる習慣がなく、訓練もなされていなかったといえよう。つまり、<裏承認社会>にドップリとつかっていたのである。典型的な<裏承認社会>の住人たちに、危機だからといっていきなりリーダーシップを発揮しろといってもどだい無理な話だ。

 もちろんそれはリーダー層にかぎった話ではなく、<裏承認>の風土は広く日本人、日本社会を覆っている。たとえば、「自粛」せずにはいられない空気一色になったかと思えば、潮目が変わると「自粛の自粛」論が幅をきかせる。
 もっとも、それはわが国にかぎられた社会の反応とは言えない。どこの社会でも世論の趨勢というものはあるし、それに反する意見は批判も浴びる。しかし、少なくとも先進国といわれる国々では異論を唱える人たちが、それなりに「居所」を得ている。そして異論を唱え続ける人たちがいる。それに対し、わが国では異論を唱えると徹底的にバッシングされ、表の社会から追放される。つまり、建前では言論の自由とか少数意見の尊重とかいいながら、実際は濃厚な空気がそれを許さない。

 このような社会は、表面的には美しく健全なように見えても、実は危険で脆いところがある。へたをすると、いたるところに慇懃無礼な人や偽善者がはびこる可能性もある。ミネルヴァの森のフクロウのように、事態が落ち着いたら、あらためてこの問題をみんなで考えようではないか。

(2011/4/20)
  1. 2011/04/20(水) 12:53:04|
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団結と異論

 「今の組織では同僚を信頼できますか?」
 「職場の仲間が仕事に行きづまったり、困ったりしたら助けますか?」
 「あなたは自身のノウハウ情報を仲間に進んで教えますか?」

 いずれの質問でも、「イエス」と答えた日本人は欧米人に比べて著しく少ない。かつて新聞にも紹介された、ある調査結果だ。
 日本社会、日本の組織では常に全会一致を旨とする。反対意見があると前に進まない。そのため異論を唱える者がいると、抑圧したり排除したりする。そもそも感情的に許せないのだ。
 当然ながら、今回の震災のような非常時にはいっそうそれが強くなる。

 非常時にはみんなが団結し、助け合わなければならない。しかし、そこで異論を排除し、また不用意な発言をした人を徹底的にバッシングすると、かえって団結が損なわれることがある。表面的には一致団結しているように見えるが、抑圧された異論、バッシングされた人たち、あるいは異論に共感する人たちが、納得しないまま水面下で不満を抱え、団結の足を引っぱり共同体にひび割れを生じさせる。
 冒頭に紹介した調査結果も、それを示唆しているように思える。

 だれでも絶対的に正しいと思っていた考えが、あとで冷静になってみると間違っていたと気づいた経験があるだろう。「これは絶対許せない」といきり立って非難したことが、別の見方をしたら、あるいは相手の言い分を聞いたら納得できることもある。

 異論や少数意見。個人的な利害の主張。それらに耳を傾けたうえで協力できる道を探っていくほうが、遠回りのようでも結局は、有効な団結への道につながるに違いない。日本人の成長、度量が試されるときだ。

(2011/3/24)
  1. 2011/03/24(木) 11:07:57|
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災害に対する目の向けかた

 大地震の発生時、私は東京のビルの8階で仕事をしていた。今まで経験したことがない異様な揺れかたに、「たいへんなことが起きている」と直感した。ほどなく巨大地震の発生が伝えられ、2時間ほどたってから急遽予約したホテルに徒歩で向かった。歩道は会社帰りの人や出張に来ている人たちで混雑していたが、彼らの言動からは災害の深刻さはほとんど伝わってこなかった。テレビの報道を見ているかぎり、これほどの大惨事になっているとは知らなかったのだろう。
 阪神淡路大震災のときも同様で、発生後かなり時間がたっても、あれだけの犠牲者が出ているとは想像もしない人が多かった。
 わが国では災害が発生したとき、犠牲者がどれくらい出るかを予想して発表することはタブーである。「不謹慎だ!」と必ず非難を浴びる。そもそも、このようにブログで第三者的に取りあげることさえ不快に思う人が少なくないだろう。
 一方、欧米のメディアのなかには、今回の地震発生後ただちに犠牲者数を予測し、どれだけの大災害かを報道していたところがあった。またアメリカのあるメディアは、危険を冒して原発作業に当たった作業員たちはノーべル平和賞に値すると賛辞を送っている。
 わが国では大災害のときにいくら活躍し、貢献してもヒーロー扱いはしない。まして本人が少しでもヒーロー気取りを見せたら、世間のひんしゅくを買う。だから個人でも企業でも寄付や支援はコッソリと行う。
 しかし、とくに企業の場合、堂々と社名を出して金銭的に、あるいは人的に支援するのが果たしてよくないことだろうか? 宣伝行為だとか、「こんな非常時にあくどい・・・」などと非難されることなのだろうか? 多く企業が競い合って支援するようになれば、たとえそこに打算が働いていたとしてもプラス面のほうがはるかに大きいと思うが。
 犠牲者数の予測にしても、地震発生から早い時期に発表されていたら、みんなが事の重大さを知り、避難や救援がもっと迅速かつ大規模に行えたかもしれない。
 被災者の立場や感情を慮るのはとても大切なことである(それができない人はとても尊敬に値しない)。しかし、気を遣いすぎて及び腰になり、結果的に被害を拡大したり支援をためらわせたりするようでは本末転倒だ。

(2011/3/18)
  1. 2011/03/18(金) 21:55:19|
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ITは、日本型閉鎖システムを変えるか

 入試問題の投稿によって、各大学は受験体制の再チェックが迫られている。大学側をおそらく、携帯電話の持ち込み禁止や電波妨害といった防衛策を取らなければならなくなるだろう。
 
 しかし私は、この事件の背後にはもっと大きな問題が横たわっており、そこにメスを入れなければいつまでたってもイタチごっこが続くのではないかと危惧している。たとえば将来、メガネ、鉛筆、衣類などに辞書機能がつくとか、手の動きを読み取って自動計算し勝手に手を動かすような機械が体に付着されるかもしれない。しかも、それが大量生産されず個別にオーダーメイドされるようになったら大学側は手の打ちようがない。

 では、背後にある「大きな問題」とは何か?
 それは特定の組織や人が個々人を評価し、選別するというところにある。そうした閉鎖的システムは市場や社会といったシステムから切り離され、自己目的的に独り歩きしている(評価や選別をもっと厳格にすべきだという最近の論調はその最たるものである)。そこが問題なのだ。なお詳しくは拙著『選別主義を超えて』(中公新書,2003年)を参照されたい。

 入試問題の流出と必ずしも同列に扱うことはできないが、大相撲の八百長や検察による証拠改竄も携帯メールやフロッピーという情報機器によって動かぬ証拠を突きつけられ、これまで闇に葬られてきたかもしれない問題を表にさらけ出した。大相撲にしても検察にしても、あのような不正を生む動機が働きかねず、しかもそれにブレーキがかからないようなシステムになっている。そこにメスを入れず、モラルや矜持にだけ期待するのはあまりにもナイーブだ。大相撲はともかく、検察の場合は国民の人権が根本から脅かされるだけにたまったものではない。

 ITによってあぶり出された問題の本質は、閉ざされたシステムの限界である。ITは人為的に閉ざされたシステムの壁を容赦なく突破する。おそらく同様の事件は、これからもさまざまな分野でつぎつぎと起こるだろう。これまでのような小手先の改革や弥縫策では糊塗しきれなくなってきたのである。

(2011/3/1)
  1. 2011/03/01(火) 09:23:12|
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ジレンマ

 せっかちな私は、飴もかんで食べてしまう癖がある。そのため、飴と一緒に奥歯の詰め物が取れることがよくある。昨日も詰め物がとれたので、先ほど歯科医院に行った。そして、歯の治療を受けながら考えた。
 こんなにしばしば詰め物が取れるのは困ったものだ。もっとしっかり着けてほしい。しかし歯科医の立場からすると、二度ととれないほど完璧な治療をしたら仕事がなくなってしまう。かといって、あまりにも短期間でとれてしまうようなら、そんな医院にはだれも行かなくなるだろう。同様に、故障や改良の余地がない完璧な車を作ったら自動車メーカーはつぶれてしまうし、犯罪がなくなれば警官は失業する。
 こうしたジレンマは、本を書くときに頭をよぎるジレンマと似ている。かりに完璧な内容の本を書いてしまったら(もちろん実際は不可能だが)、それ以後、もう本は書けない。かりに書いたとしても、読む価値がないので売れない。
 学者や言論人は論理や主張にブレがあってはいけないとよくいわれる。しかし、まったくブレがなければ新鮮さがないので、だれも二度とその人の話を聞いたり書物を読んだりしない(蛇足だが、まじめな人格者が付き合うのには面白くないのもそれと似ている)。
 一貫性を保ちながら継続的に聞き手、読者を引きつけるには、適度なブレ、振幅を意識的につくり出すことが必要かもしれない。しかし、それも下手をすると策におぼれて本末転倒になる。聞き手、読者からすると適度なブレ・振幅を感じながらも、ゆらぎの中から背後にある壮大な理論の体系や深遠な思想がだんだんと鮮明に見えてくるというのが理想だ。
 そう思うと、この歯医者さんは偉大な歯科医かもしれない、と身が引き締まった。「すぐとれる」とときどきぼやきながら、私も家族もたいへん気に入っているのだから。

(2011/2/14)
  1. 2011/02/14(月) 19:46:05|
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管理職はまじめなほうがよいか?

 昔、ある役所の採用面接を受けに行ったとき、昼休みに控え室で他の受験者と時間待ちをしていた。すると管理職とおぼしき中年の職員がやってきて、「君たち、互いにライバルなんだから殺し合いをしたらどうだ」と暴言を吐いた。そんな言葉が飛びだすとはだれも想像できないようなお堅い役所だっただけに、一瞬驚いた。しかし、すぐに私は、この役所に入るのも悪くないな、と思った。こんな暴言を吐く人がいるくらいだから、あまり厳しく管理されはしないだろうと想像したからだ。

 また別のある組織に入ろうかと迷っていたとき、トップの人を訪ねて面談したら、彼はある部下についてあらん限りの悪口を並べ、初対面の私に聞かせた。そのときも私は、ぜひその組織で働きたいと思ったものだ。トップと他のメンバーが、上下関係というより対等に近い関係にあり(もっと言うなら、そのアナーキーさが気に入ったのかもしれない)、自由に仕事ができそうだと感じたからである。

 暴言を吐いた人も、部下の悪口を聞かせたトップも、人間としては大いに問題があり、とても尊敬には値しない。しかし、そうした言動が、結果的に部下や周囲の人のやる気を引きだす場合もあるのだ。私が変わっていて、例外だと思われもかもしれないが、一般の企業や役所でもそうした事例にしばしばお目にかかる。なかにはトップがわざと道楽者を装ったり、頼りなさそうに演技したりしていて、社員のモチベーション・アップに成功しているケースもある(『「見せかけの勤勉」の正体』)。

 このような高等戦術は、成功と失敗が紙一重であり、だれにでも勧められるものではない。
 ただ、まじめで威厳のあるリーダーの下に、優等生だが覇気のないフォロワーが増えているのを見ると、固定観念で理想のリーダー像を求めることが空しくなる。少なくとも、「上司は襟を正すべきだ」とか、「率先垂範しろ」といった常套句を安直に並べていてよいものかと考えさせられる。

(2011/2/4)
  1. 2011/02/04(金) 21:56:06|
  2. 2006年
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やらされ感の源

 明けましておめでとうございます。

 新しい年を迎え、今年こそ何かを続けたいと決意されている人も多いのではないでしょうか。
 私も、昨年の暮れから始めたジム通いをなんとか続けたいと思っています。

 しかし、会員制テニスクラブ、洋雑誌の年間購読、年会費の美術館会員など途中で(というより、始めてすぐに)挫折した経験もたくさんあるだけに不安です。
 続かなかったケースを振り返ってみると、かなりの初期投資をしたことが共通しています。最初に年会費を支払った、高額な用具を購入した・・・などです。
 当初は張り切っているし、初期投資をしたら中途で辞めると損なので長続きするだろうと考えます。ところが、そこに盲点があるのです。たしかに、最初のうちは「元を取らなくては・・・」とがんばります。けれども、だんだんとそれが負担になってきて、やがて奴隷のように「やらされ感」だけで続けるようになります。それがある臨界点に達したとき、あるいは何か自分を正当化できる理由が見つかったとき、「投資は捨てたと思えばいい」と割り切り、辞めてしまいます。いったん辞める決心をしたら、二度と行ったり使ったりすることはありません。

 私の経験では、テニスクラブには年会費を払って2,3回しか行かなかったのに、毎回500円払って参加するテニススクールはかなり長期間通いました。当然ながら毎回払いのほうは「元を取らなくては・・・」という負担感がないので参加するのが楽しみでした。しばらく休んでも、また通いだしました。

 私のほかにも、ジムやテニスクラブに年会費を払ったが、すぐに辞めてしまったという人が大勢います。年会費制のジムやテニスクラブのなかには、設備は立派だけれど閑散としているところが多いものです。会費は払ったけれど辞めてしまう人がたくさんいるので、設備にお金がかけられるのでしょう。うがった見方をすると、会社は「やらされ感」が高じて辞めていく心理的メカニズムを知っているからこそ年会費制にしているのかもしれません。

 ところで、同じようなメカニズムは雇用関係にも見られます。日本の会社では、いったん社員を採用したら簡単に解雇することはできません。いっぽう社員の側は、制度上はいつでも辞められますが、辞めたら再就職するのがたいへんだし、年功制のもとでは給与だけでなく退職金や年金の面でも大きな損になります。したがって心理的には、「辞められない」という意識が強いのです。
 ただ、ジムやクラブと違うところは、生活がかかっているので簡単に辞められないことです。そのためジムやクラブ通いとは違う、独特な行動をとるようになります。
 
 拙著『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)では、日本の労働者の「勤勉さ」や「意欲」をこうした視点も加えながら分析してみました。賛同していただいた方が多かったのは、上述のような経験を持つ人がたくさんいるためかもしれません。

(2011/1/7)
  1. 2011/01/07(金) 10:51:33|
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見えない能力

 昨日会った学生ラグビーの経験者が、「最近の選手は見かけはとても立派になったが、すぐに怪我をする」と語っていた。それを聞いて私は、やっぱりそうかと思った。
 
 私は今月から、メタボ対策のために生まれてはじめてジムへ通うことにした。そこには一目でスポーツマンとわかる筋骨隆々とした人たちが何人もいて、バーベルやトレーニング機器で懸命に筋力を鍛えている。たしかにそれによって大きな筋肉は付くし、見てくれはたくましくなる。けれどもスポーツに必要な細かい筋肉は付きにくい。また当然ながら骨や腱は、筋肉に比例して丈夫になるわけではない。そのアンバランスが自らの体をこわす場合もあるだろう。敏捷性や判断力、すばやい身のこなしなどを含め、スポーツに必要な能力はやはり実践で身につけるのが基本だ。

 ところで昨日、OECDが世界の15歳の生徒を対象にした学習到達度調査の結果を発表した。それによると、日本人生徒の低落傾向にやっと歯止めがかかったそうだ。教育関係者は一安心といったところだが、はたしてそれに一喜一憂している場合なのか。調査で試された能力は読解力、数学的リテラシーなど「見える能力」が中心だ。それらが大切でないとは言わないが、仕事においても生活においてももっと重要なのは独創性、創造性、勘やひらめき、洞察力、相手の気持ちや考えを読む力、といった「見えない能力」である。

 スポーツにしても仕事にしても、最も重要な「見えない能力」は、見えないし、つかみどころがないだけに体系的に育成したり、それを評価・測定したりすることがきわめて難しい。実戦で身につけ、結果を通して事後的に評価するしかないだろう。しかも、その実戦のなかには、いたずらやいじめ、けんかやトラブル、だまし、といった社会的に容認されないものまで含まれていることも事実として認めるべきである。それを考えたら、教育機関など公式な組織でそれを育成することはできない。

 結局、社会の許容度や文化といったシステム全体を再構築していかなければ「見えない能力」は育たないし、そうしないことには日本人、日本企業の国際競争力も改善しないのではなかろうか。

(2010/12/8 誕生日に)
  1. 2010/12/08(水) 12:00:21|
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「自分探し」はほどほどに

 「白鵬の連勝は前半戦でストップする」。身近な人に私はそう予言していたら、残念ながらそれが的中した。予言の根拠は何かというと、場所前の白鵬は「心」の大切さをことさら強調するなど、意識が内(自分)に向きすぎているのを感じたからだ。意識が外にある対象ではなく、自分に向いたとき自滅することが多い。

 大学では毎年、新入生が入ってくると「自己分析」をさせる。それによって自分の強み、弱み、特性などを見つけさせようとするものだが、私は弊害のほうが大きいと思っているのでさせないことにしている。
 意識が自分に向きすぎるのが危険なだけでなく、早くから「自分はこんな人間だ」と思い込んでしまうのもこわい。私自身も中学生か高校生のころに学校で適性検査を受けたが、教室の陰鬱な空気の中で答えたため、予想どおり「屋外の仕事が向いている」という検査結果が出た。でも今は、犬の散歩くらいしか屋外で活動することはない生活を送っており、それが自分に不向きだとも思っていない。
 
 ところで、犬の散歩といえば、散歩中に犬が自分のしっぽを追いかけてクルクルと回り続けることがある。それ見るたびに私は、「これが自分探しだ」と思わずにいられない。犬が自分のしっぽをくわえられないのと同じように、自分で自分を見つけようとしても無理だ。真剣にそれをやっていたら、おそらく一生が自分探しで終わってしまうだろう。

 もちろん、ときには立ち止まって自分を振り返ってみるのもよかろう。しかし、一度振り返ったらすぐに前を向いて進むべきである。そうしないと精神的におかしくなる。
 「自分探し」はほどほどに、というのが私の意見だ。

(2010/11/22)
 
  1. 2010/11/22(月) 17:38:26|
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動態的に考える

 先月開催された組織学会の大会で、ゲストとして講演した株式会社ミスミ社長の三枝匡さんが最後につぎのような話をされた。
 自分が社長に就任するまでのミスミは、あまりにも自由すぎた。その弊害が表面化したので少し管理するようにした。しかし管理しすぎるとこんどは社員の自主性や活力がそがれる。そうなるとこんどは管理をゆるめる。その繰り返しだと。

 どのような組織が理想的か? 
 組織論の専門家でなくても、人をまとめる立場の人はそれを考え、理想を追求してきたはずだ。組織は統制と規律が何より大切だという人もいれば、組織は仕事をするためのインフラ(場)であってメンバーの自律を最大限に尊重すればよいという人もいる。統制と自律のバランスが大切だという常識派(中庸主義者)も多い。ところが、どのモデルをとるにしても、いずれ壁にぶつかることが多く、その段階で、自分の理想や信念は瓦解してしまう。

 しかし、動態モデルを取り入れれば、もう少し柔軟に考えることができ、理想や信念は結果的に生き残る。たとえばメンバーの自律を最大限に尊重すべきだが、人間は期間がたつとだれでも自分の方向性を見失ったり、組織や他のメンバーからの要請を忘れたりする。そこでしばらく規律や管理を経験させる。そしてまた元に戻す、といった具合にするのだ。

 これは組織にかぎった話ではない。
 たとえば子育てでも、子どもは自由に伸び伸び育てればよいと考えている人もいるし、厳しくしつけなければならないと信じている人もいる。しかし、そのように単純な信念を通して立派な大人に育てあげたという人はまれではなかろうか。自由にさせすぎて道を踏み外した、事故に遭ったとか、逆に厳しくしすぎて自主性のない人間になった、反抗期が遅れてやってきた、というのがむしろ普通だ。
 動態モデルなら、自由に育てて、その弊害が現れそうになったときに厳しくしつける。そしてまた自由にしつけるといった繰り返しになるだろう。

 大事なのは、一つの理念や方針が絶対的に通用すると信じ込まないことである。そんなものがあれば長い歴史の中でだれかが見つけていて、組織づくりでも子育てでも悩む人はいなくなっているはずだ。まじめな人はとくに絶対的な真理を追究しようとする。それはそれで大切なことだが、そのためには柔軟性を取り込む別の要素も加えなければならない。

(2010/11/2)
  1. 2010/11/02(火) 09:24:04|
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サラリーマン下克上の時代

 会社の従業員にアンケートをとると、ちょっと背筋が寒くなることがある。自由回答欄には、エリート層への反発、そして彼らを優遇する会社への不満がたくさん述べられているのである。もちろん声の主は、いわゆる一般職や、非正社員、低学歴者などのノンエリートたちだ。

 以前はこんなことはなかった。なぜ、エリートへの反発、不公平感がこれほど広がったのだろうか?

 最大の原因は、拙著 『「不良」社員が会社を伸ばす』 (東洋経済新報社、2010/10)で詳しく述べたように、求められる「能力」「意欲」の質が今、根本的に変化しているためである。

 実力がものをいう自由業・自営業の世界や一部の新しい企業では、これまで日の当たらなかったノンエリートたちのなかからほんとうに優秀な人材が続々と台頭する一方、かつての「エリート」たちが居場所を失っている。
 私もこの年になっていろいろな同窓会に出席する機会が多くなったが、元気があって羽振りがよいのは昔はあまり勉強できなかった(しなかった?)者で、かつての優等生はどちらかというと影が薄い。

 そして「エリート」たちが裸の王様になったのは、ノンエリートたちが彼らの正体を知る機会が増えたためではなかろうか。
 最近は幹部候補生にも、若いうちに現場を体験させるためノンエリートたちと一緒に仕事をさせる企業が多くなった。また職場に派遣やアルバイトなど非正社員が増えてきた。そのため、「エリート」の仕事能力がノンエリートの自分たちとさして違わないこと、場合によってはむしろ自分たちのほうが実務能力に長けていることを実感したのだろう。にもかかわらず、「エリート」として特別扱いされ、自分たちと待遇も大きく異なるのであれば当然、理不尽な格差・差別だと思うようになる。

 いずれにしても、「能力」と処遇のギャップが明らかになった以上、「エリート」の再定義が必要なことは間違いない。「サラリーマン下克上の時代」である。

(2010/10/18)
  1. 2010/10/18(月) 18:17:09|
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思いこみ

 最近、いろいろなトラブルを目に(耳に)した。渦中に巻き込まれることもある。そこに共通しているのは、思いこみが誤解を招いたり、事態を悪化させたりしていることだ。しかも日頃は冷静沈着な人までそうなるのだから困る。

 人間はだれでも自分の頭で物事を認識し、仮説を立てて行動する。しかし情報不足や解釈上の問題によって、その認識や仮説が誤っている場合がある。たとえ認識や仮説が正しかったとしても、何かその認識や仮説に合致したような情報が入ると、それを検証することなく自分の認識や仮説の枠組みに当てはめて解釈する。すると、曖昧だった認識や仮説は確信に変わる。それがこわいのだ。

 たとえば過去の言動などから、「Aさんは卑怯な人だ」という先入観をもっていたとする。あるいは、「Bさんたちは自分を嫌っているのでは」と疑っているたする。そこへたまたまAさんが自己弁護する発言をすると「Aさんは責任逃れのために嘘をついている」となるし、Bさんが仲間と小声で話し合っているのをみると「自分の悪口を言っている」と完全に思いこむ。しかし第三者として客観的にみていると、その大半は全くの誤解か、誤解の部分が含まれている。少なくとも、偏った一面的な解釈をしている。

 とくに恐いのは、自分の思いこみをあたかも事実であるかのような口ぶりで誰かに話し、相手と思いこみを共有したときである。たいていの場合、自分に共感してくれそうな人に話すので、思いこみが共有される可能性は極めて高い。そうなると、もうどんな弁解に対しても聞き耳をもたないし、たとえ聞いてもそれを自分の仮説を補強する材料としてとらえてしまう。

 それはだれでも陥りやすい危険な心のワナである。だれより理性と冷静さが求められる検事でさえ、自分の描いた筋書きどおりに証拠をねつ造し、上司もそれを隠すといった過ちを犯したではないか。

 では、どうすればそれを防止できるか?

 とりあえずは、自分の描いている仮説とまったく異なる仮説を立て、それに当てはめて物事や情報を解釈してみるべきだろう。

(2010/10/3) 
  1. 2010/10/03(日) 09:04:41|
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「苦にするな嵐のあとに日和あり」

 敬老の日を前に、京丹後市丹後町に住む男性長寿日本一の木村次郎右衛門さん(113)が、こんな座右の銘を披露したそうである(2010/9/13j毎日新聞)。
「止まぬ雨はない」「明けぬ夜はない」とか、「禍福はあざなえる縄のごとし」といった諺と同じような意味だが、人生経験が日本一長い人の口から聞くと実に重みがある。
 客観的に良いことと悪いこと、幸と不幸が交互にやってくると考えるのは無理がある。むしろ幸と不幸、快と不快は相対的なものだと考えた方がよい。極端な例をあげるなら、末期癌で苦しんでいる人は痛みが和らいだだけで幸福感を味わうだろうし、すべてに恵まれた人は体重が1キロ増えたことも悩みの種になる。幸福そのものが退屈で、むしろ小さな不幸を求めるかもしれない。
 私は小学校3年生のころから、そのことを考えて無気力になったことがある(今でもそれから完全には抜け切れていないが)。楽しいときも後でその反動くるかと思えばあまり楽しくなくなるし、努力して幸せになっても必ずその裏返しがやってくると考えたら、何もする気がしなくなった。そして、その考えを否定するための命題を探し続けた(とくに哲学を学んだわけではないが)。幸福の絶頂期に急死したら生涯幸福度はプラスになるし、難産で苦しんみながら生まれた子がそのまま亡くなったらマイナスで終わるとか。あるいは、幸-不幸、快-不快の一次元でとらえるのは単純すぎる(たとえば人は自分の不幸を逆に楽しんでいる部分もないとはいえない)とか、そもそも神は人間を公平に扱うとはかぎらない、とも考えた。
 木村翁の言葉は、多くの人を勇気づける。しかし、私のように勇気づけられると同時にアポリアから抜け出す道を断たれたように受け止める人もいるだろう。
 木村翁にはもっともっと長生きして、人生の「正解」を教えてもらいたいものだ。

(2010/09/14)

テーマ:社会ニュース - ジャンル:ニュース

  1. 2010/09/15(水) 12:30:58|
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「片手間」はよくないのか?

 書店のレジに高校生くらいの若者がやってきて、漫画本をポンと放った。なぜ、もっとていねいに差し出せないのか?
 彼らはズボンを腰までずらし、バイクに乗るときもヘルメットを後ろに吊している。若者独特のテレと見るべきだろう。
 ではなぜテレるのか? おそらくまじめにやっていると自分の内面を覗かれるようで怖いのである。素の自分を見られることに対するこの年代特有の恐怖心だ。だからわざと、「心ここにあらず」を装う。

 先月出版された拙著『「見せかけの勤勉」の正体』にはかなりの反響があった。大部分は「納得できる」というものだが、なかには異論もある。そのほとんどは「管理は片手間で」に集中している。私もそれは予想していた。
 これは私の想像だが、「片手間」というと上に書いた若者の一見ぞんざいな態度のようなものを思い浮かべるのだろう。しかしほんとうに「片手間」だったり、「心ここにあらず」だったらあのような態度をとるだろうか? ズボンのベルトはウエストで締めたほうが歩きやすいし、ヘルメットはまともにかぶるほうが楽だ。若者があのような態度をとるのは、逆に周りの目を過度に意識している証拠である。それを意識していないように見せたいからそうするのだ。
 それは大人だって同じだ。家庭でも組織のなかでも、乱暴な態度をとったりトラブルを引きおこしたりする人は、たいていが入れ込みすぎている。そこが一番大事だと思っているから譲れないし、相手に過剰な期待をかけ、余分な干渉をしてしまう。ときには妄想もわく。
 その点、ほかにもっと大事な心のよりどころがある人は、過剰な期待も余分な干渉もしない。トラブルに巻き込まれたくないので身を慎み、丁重な態度をとる。そして相手から尊敬される。周りから「あの人は大人だ」といわれるのは、たいていが生きがいをそこに持ちこんでいない人だ。

 もちろんそれも程度ものだが、「熱意」や「誠意」ばかりが求められ、お節介が過剰気味なのが今の日本。「片手間」の効用にもっと注目してもよいのでは。

(2010/7/3)
  1. 2010/07/03(土) 10:57:27|
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「見せかけの勤勉」の正体

 ゴールデンウィークの真っ最中だ。しかしデパートやスーパー、それに行楽地などはかき入れ時だ。連休だといってのんびりしている人は全体からみると一部に過ぎない。

 昔から指摘されているとおり、日本人ほど長時間、休みも取らずに働く国民は少ない。この不況下でも正社員の労働時間はけっして短くなっていない。先日、大教室の授業で学生たちに訊いてみた。「不況に入る前と比べてお父さんやお母さんの帰宅時刻はどう変わったかか?」と。すると、「早くなった」という者より「遅くなった」という者のほうが明らかに多かった。

 私は海外のいろいろな国の企業を見て回っているが、どこの国でも残業は例外的にしか行わないし、有給休暇は全部取得する。また働きぶりをみても、日本人のほうがはるかに勤勉である。

 しかし、見た目だけではわからないものだ。最近発表された各種の意識調査によると、日本人の仕事に対する「熱意」、「やる気」、それに仕事に対する満足度は国際的にみてきわめて低い水準にある。『世界でいちばんやる気がないのは日本人』(可兒鈴一郎)という本があるが、それがまんざら誇張ではないことがわかる。
 熱意ややる気だけでなく、労働生産性、国内総生産、国際競争力といった指標も急降下している。

 見た目の勤勉さとほんとうのやる気、仕事の成果との間に、なぜこれほど大きなギャップが発生したのか?
 そのナゾを解かないことには、社員のやる気も生産性も上がらない。また労働者は疲弊し、国力は低下するいっぽうだ。ガンバリも単なる自己満足で終わってしまう。というより、その「ガンバリ」のなかにナゾを解くカギが隠されている。

 日本人のやる気を奪っているものは? 負のスパイラルから脱却するには?
 それを解明してみた。

◆拙著『「見せかけの勤勉」の正体』PHP研究所、2010年5月刊。

(2010/5/1)
  1. 2010/05/01(土) 13:44:17|
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コミュニケーション

 大学生の就職内定率が急落している。「新卒」扱いしてもらうために留年する学生も増えている。一方では、就活対策として自己アピールの方法などコミュニケーション能力を高める講座がはやっているそうだ。
 そこまでしなければならないのかと思う人もいるだろう。だいじなのは思考力や専門知識であって、コミュニケーションはそれを伝達する手段に過ぎず、運転免許のようなものだと考えている人もいる。私もかつてはそうだった。けれども最近は、それが間違いではないかと考えるようになった。
 私たちは仕事においても、ふだんの生活でも、命に関わるほど大切なことでないかぎり人間関係や成り行き、感じのよさといった必ずしも合理的でないもので決めているのが現実だ。いや、命に関わる問題だって例外ではない。たとえば重病にかかり医療の質が生死を左右する場合でも、セカンドオピニオンを求めたり、最高の医師を探したりする人は多くない。転院の煩わしさや担当医との人間関係などが頭から離れず、適当な理由をつけて自分を納得させてしまう。
 日常の仕事や生活ならなおさらだ。企業が社員を採用する際、面接の担当者は相手がどれだけ優秀か、自社に貢献するかより、好き嫌いやフィーリングを重視するかもしれない。商談や取引も、こまめに連絡を取り誠実な対応をするかどうかで決まることがある。
 つまり、内容が「主」、コミュニケーションが「従」という常識とは違って、実際はむしろその逆のケースが多いのではないか。
 また、積極的に自己アピールするうちに態度や行動が前向きになったり、コミュニケーションの中で思考が練られたりするものだ。コミュニケーションが内容を変えるわけである。
 そう考えたら、私たちはコミュニケーション能力を磨くのにもっと投資してもムダではないはずだ。

(2010/3/31)
 
  1. 2010/03/31(水) 11:46:27|
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民主主義のパラドックス

 私は自由主義や個人主義は好きだが、民主主義はあまり好きではない。というか、絶対的には信用していない。その理由は、民主主義そのものには手続き的な価値しかないこと、そして手続き的な価値にも対立や矛盾を含んでいるからである。
 第一に、民主主義と自由主義や個人主義とはしばしば対立する。第二に、民主主義そのものが内部矛盾を抱えている。
 第二の問題は、民主主義のパラドックスと言い換えてもよいだろう。たとえば国民の顔色ばかりうかがい、移ろいやすい世論におもねる政策をとっていたら、結局は国民の支持を失う。単に世論を追いかけるだけなら政治(家)はいらない。投票マシンさえあればよい。
 いくら国民が主権者だといっても、一人ひとりの国民はどんな政策がベストだとわかっているわけではない。選挙だって、それほど深く考えずに投票している人が多数いるのが事実だ(そのことを否定するなら空疎な建前論に陥る)。まして一人ひとりの選択、あるいは人気のある政策を合成すると、思いもよらない結果が出ることもある。だからこそ、すべてを掌握したうえで国民が納得するような政策を示し、実行するリーダーが必要なのである。
 「マニフェスト」「政治主導」を看板に掲げているにもかかわらず支持率低下に歯止めがかからない政権は、このパラドックスを思い知ったのではなかろうか。

(2010/3/16)
  1. 2010/03/16(火) 21:49:16|
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「アンチ巨人」も巨人ファン

 私が本を出したり新聞や雑誌に原稿を書いたりすると、ブログや雑誌などでそれを批判する(してくれる)人がいる。正直なところ、私はそれをありがたいと思っている。批判されるのはそれだけ注目してもらっている証拠だし、批判の内容はつぎに執筆する際の参考にもなる。
 もっとも私の場合、批判的なコメントは全体のせいぜい数%だから歓迎できるのかもしれない。
 ベストセラーをたびたび出すある人が、こう述べていた。著書の実売部数が数万部くらいまでだと読者の大半は著者のファンだが、10万部を超えると批判的な読者が急増するそうだ。
 これはベストセラー作家にかぎった話ではない。たまたま自分の名が世間に知られると、情報化社会では四方八方からさまざまな声が届く。
 たいていの人は、見ず知らずの人から批判されたりけなされたりした経験を持っていない。免疫がないので、匿名の批判者が急増すると冷静さを失う。そして、なかには感情的に反論する人もいる。それが火に油を注ぐ結果となり、自分のブログが炎上したり攻撃的なメールや手紙が殺到したりすることもある。そうなると精神的にまいってしまい、心身に変調をきたす人もでてくる。おそらく、世の中全体が自分を敵視しているような錯覚に陥るのだろう(実際はだれも他人のことなどそれほど強く意識してはいないのだが)。
 だいじなのは、そのときにどれだけ自分の立場を広い視野から、そして長期的にとらえられるかだ。
 ある調査によると、バンクーバーオリンピックに出場した選手のなかで認知度が最も上がったのは、服装問題でバッシングされた國母選手だったそうである。世間の評判も当初は批判的だったが、今ではむしろ彼に好感や同情を抱いてる人のほうが多いのではなかろうか。スノーボードをマイナーな競技から、かなりメジャーな競技へ引き上げた功労者とも言える。
 「アンチ巨人」も入場料や視聴率に貢献するという点では巨人ファンと同じである。それどころか、アンチ巨人がいるから巨人ファンも増える。そう達観できればよいが、「言うは易し行うは難し」だ。
 幸か不幸か私には無縁の話だが。

(2010/3/11)
  1. 2010/03/11(木) 11:00:07|
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オオカミ少年

 昨日は津波の影響(というより津波警報の影響)で交通手段に乱れが生じた。私の周囲にも、仕事や生活に支障が出たという人が何人かいた。NHKのテレビでも、一日中、津波のニュースばかり放映されていたらしい。
 それぞれの組織が過敏に反応するのはわからないでもない。気象庁としては、万が一予想を上回る津波がきたら、そして人的被害でも発生したら厳しく責任が問われるだろう。JRにしてもNHKにしても同じである。万が一のことがあったら、大きな責任問題に発展し、交通機関などは民事責任だけでなく刑事責任を問われるかもしれない。逆に過剰な反応をしても、その責任追及はゆるい。追及されたら、「万が一のことを考えて」とか、「人命尊重のため最大限の注意を払った」と答えたら許される。
 けれども、それがエスカレートしたら、いろいろな弊害が出る。まず、警報が出されても、どうせ大したことはないだろうと受け止められるようになり、ほんとうに大津波がきたときには甚大な被害が出かねない。また、万が一、億が一のことを考えて過剰反応していては、社会の機能が麻痺してしまう。
 それはもちろん津波の問題にかぎったことではない。かつてインフルエンザの予防接種で副作用が出て、医師か医療機関かの責任が問われたことがあった。そして、それ以来しばらく、学校などでの集団接種が中止された。それによってインフルエンザで死亡する人が増え、副作用で亡くなる人の数の比ではなかったそうだ。
 こうした問題を克服するには、やはり確率論で合理的に判断するしかない。「絶対に犠牲者を出してはいけない」、「万が一のことがあってはいけない」というのは心構えとして正しいが、それもやはり他の利益との均衡という限界がある。極論だが、絶対に事故があってはならないのなら自動車もバイクも禁止するしかない。「許された危険」という概念を広く解釈してみてはどうだろうか。

(2010/3/1)
 
  1. 2010/03/01(月) 17:43:58|
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「清濁併せ呑む」は死語に

 「最近、太っ腹な公務員が少なくなった」。役所の現場に詳しい学者が、こう語った。
 いわれてみればたしかにそうだ。教員や警察官などを含め、まじめで人当たりがよくなった反面、個性や迫力が消えた印象は否めない。

 役所といえば古い日本的組織の代表のようにいわれるが、同じように「古い」日本的組織に大相撲の組織(日本相撲協会)がある。大相撲でも、今や外国人力士を除けば個性的で魅力的な力士は少ない。言葉は悪いが、まじめなお坊ちゃんが相撲を取っているといった印象だ。

 これは、日本社会のバランス変化を象徴しているように思える。
 私はこれまで「承認」について、何冊かの本を書いてきた。その中では、日本の社会・組織が人間の個性や突出した能力・業績などをたたえる「表の承認」より、序列や分をわきまえ、規律や和を乱さないことを重視する「裏の承認」に偏っているとたびたび指摘した。

 ただ、どんな組織や社会でも「裏の承認」だけでは衰退してしまう。そのため伝統的な日本の組織・社会では、うまく「表」と「裏」のバランスが保たれてきた。

 役所で大切なのは本音と建て前の使い分けであり、出世するのは「清濁併せ呑む」タイプだといわれた。ところが今のご時世、一滴でも濁ったものを呑んだら即アウトだ。大相撲でも、無類に強いが破天荒なタイプの力士は「品格」の名の下につぶされてしまう。
 オンブズマン、横綱審議会、再発防止委員会、等々は近年新たに登場し、設置されたものだ。その人たちの努力と意気込みは認めなければなるまい。しかし、それらの制度や組織がマスコミの力を借りてあまりにも大きな威力を発揮しすぎたとき、「表」と「裏」のバランスが崩れる。

 行きすぎた「裏の承認」の厳しさにブレーキをかけるのは、効率、生産性、競争、市場といった組織の外にある要因である。
 たとえば民間企業なら、生産性を上げ、競争に勝ち抜くため、品行方正なだけの者は淘汰され、自ずと「表」と「裏」のバランスが保たれる。ところが役所のように業務が独占的で効率性や生産性に絶対的な基準がない組織では、まじめで人当たりがよいだけの人間ばかりになってしまう恐れがある。
 相撲にしても、絶対的な強さの基準がないので力士の力が全体的に低下してもわからない。これが野球なら、ピッチャーの球速やバッターの打球の速さ、飛距離などに力の低下が表れる。だから、まじめなだけの野球選手によって球界が塗り替えられる可能性は低いのである。

 役所や角界だけではない。ほうっておくと、日本の組織や社会は「裏の承認」に偏る。とくに今はそういう時代だ。日本の風土や伝統、それを広い視野で、そして深く掘り下げて見ないと、よかれと思った改革が「産湯とともに赤子まで流してしまった」ということになりかねない。

(2010/1/29)
  1. 2010/01/29(金) 14:34:41|
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浪人生へのワクチン接種と地方分権

 今日の新聞によると、沖縄県で余った新型インフルエンザのワクチンを浪人生に接種しようとしたところ、国から「待った」がかかったそうだ。浪人生は接種対象とならない「健康な19~64歳」に該当するので接種が認められないのだという。
 これも、地方分権の問題を考える格好の材料である。
 一見すると国の対応は杓子定規すぎるように思える。浪人生も同じ受験生なので現役生と同等に扱うべきではないか、という意見もある。
 たしかに、全国の浪人生に接種を認めるならそれもいいだろう。また現実にありえない話だが、沖縄県の浪人生が県外の大学を受験しないのなら問題ない。しかし実際の受験は県境を越えて行われる。そうである以上、沖縄県の浪人生だけ接種を認めるのはやはり不公平だ。
 忘れてならないのは、入試は教育ではないということだ。教育なら各地域が独自の取り組みをしてレベルの向上を競うというのもよかろう。しかし入試は言ってみれば一種の必要悪であり、それを過熱化することに意味はない。しかも典型的なゼロサムゲームである。仮に沖縄県の浪人生に予防接種をすれば、県外の浪人生からは「自分たちにもしてくれなければ不公平だ」との声があがるだろう。
 入試以外にも同じようなことはたくさんある。分権と平等。何度も言っているように、これは大きなテーマである。

 
(2010/1/15)
  1. 2010/01/15(金) 20:45:32|
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挨拶

 いささか品の欠ける話題を一つ。

 病院の待合室で順番待ちをしているとき、スーツ姿の来客がスタスタと前を横切って診察室に入る。製薬会社の営業に携わっているMRである。待たされる身からは、たとえ数分でも待ち時間が増えると思うとイライラする。そこで彼らが病院を訪ねたとき、待合室にいる人にひと言「おはようございます」とか、「失礼します」と挨拶したら、それだけでイライラも緩和されるはずだ。それは製薬会社や病院のイメージアップにもつながる。だから私は製薬会社に就職する学生にも、就職したら挨拶を心がけるよう助言している。
 些細なことかもしれないが、人間関係を良好に保つうえでやはり挨拶は大切だ。それは、挨拶が相手の存在を認めることだからである。病院を訪ねてくるMRは医師や事務員は認めても、患者には迷惑をかけているにもかかわらず、その存在をまったく認めていないわけである。
 けれども人は、自分の存在を認めてほしくない場合がある。
 今朝、私は仕事で大阪のビルに行った。手洗いは掃除中で、中に入ると掃除をしている女性が笑顔で「おはようございます」と挨拶する。狭い手洗いだけに何となくバツが悪い。そのうえ丁寧なことに、出るときには「失礼いたしました」の言葉をかけられた。こちらは恐縮し「お邪魔しました」と答えたが、無視したほうがよかったのだろうか、と考えてしまった。
 やはり人間には、認めてほしいときと無視してほしいときがある。

(2009/12/14)
  1. 2009/12/14(月) 16:40:46|
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不満の矛先

 病院関係者によると、新型インフルエンザの接種をめぐって、病院を訪れる人たちだけでなく病院関係者の間でもちょっとしたいさかいが起きているそうである。「なぜ私にはワクチンを打ってくれないのか」「とにかく黙って打ってくれ」「あなたは接種してもらったからいいけど・・・」というような声があちこちで聞かれるという。
 接種を受けられる人と受けられない人を分ければ、当然、その線引きをめぐって不満が出てくる。たまたま今回の新型インフルエンザは弱毒性らしいのでまだましだが、仮に強毒性で罹患者の致死率が高かったらどうなるか。政府が決めた一方的な線引きではだれも納得しないだろう。
 もう一つ、対立の火種がある。「子ども手当の実施」と「配偶者控除の廃止」だ。内容の是非はともかく、私が疑問に思ったのは、なぜわざわざ「配偶者控除の廃止を財源にして・・・」と両者を結びつけ、国民の利害対立をあおるようなことを政府が言い続けるのかである。両者を結びつけなければ無用な対立は起きないはずだ。それをあえて結びつける様子は、むしろそれをあおっているようにさえみえる。もしかすると不満の矛先を政府に向けさせないためではないかとか、国民が団結しないほうがつごうがよいのでは・・・などとついつい勘ぐりたくなる。
 京都はそろそろ底冷えがする季節。気持ちまで寒々としてくる。

(2009/11/21)
  1. 2009/11/21(土) 15:47:51|
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校則とマニフェスト

 どこの学校にも校則がある。その校則はだれが、どんな手続きで定めたのだろうか? 
 おそらく学校設立時に、ほかの学校の規則を参考にしながら短期間に決めたのではないか。しかし、いったん施行されたら、その手続きうんぬんの話は表に出ない。生徒には「校則を守ると約束して入学したのだから・・・」という理屈が突きつけられ、義務教育でなければ「いやなら辞めろ」という言葉まで飛びだすこともある。
 選挙時に掲げたマニフェストを「国民との約束」として押し通す新政権の姿勢にも、どこか共通したものがある。政府としては、実行しなければ「選挙用だったのか」とか、「やっぱり何党でも同じで現実の壁は厚い」という声が返ってくるのを恐れているのだろう。目の前にはつぎの選挙が控えているし。
 しかし、マニフェストに掲げられている各項目は、その一つひとつが国民と議論を重ねたうえで練り上げられたものばかりだろうか? かりにそれが不十分だったとしたら、選挙での信任を錦の御旗にして押し通そうとするのは無理がある。下手をすると、独裁政治と変わらなくなってしまう。
 そもそも選挙の争点が一つでない以上、たとえ選挙で多数の議席を取ったからといって、そこで掲げられたことのすべてを国民が支持したということにはならない。マニフェスト選挙が定着するに際し、真剣に考えなければならない問題である。

(2009/10/1)

 
  1. 2009/10/01(木) 09:04:10|
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世論はだれがつくるか

 世論は一部のものによってつくられるのだとつくづく思う。
 今日のNHKニュースでは、今回の衆院選挙に関する世論調査の結果が報じられていた。民主党が圧勝した原因はなにかと質問したところ、「自民党の政治への不満」が52%で最も多かったという。答えるほうも答えるほうだが、訊くほうも訊くほうだ。一般の有権者にそんなことがわかったら、専門家はいらない。
 NHKだけではない。他の報道機関も同じような意識調査をやり、その結果を大きく報じている。そして、その数字が独り歩きする。
 では、このように回答した人は、何によってそう判断したのか? 
 たいていの人は、マスコミがそう言っていたからだろう。要するに、マスコミが適当に敗因を考えて報道する。それを見た国民が正しい情報であるかのように受け取り、逆にマスコミから質問されたときにはその情報を返す。それを受けてマスコミは、意識調査によって権威づけられた数字を大々的に報じる。国民を利用したマスコミの一人芝居ではないか。
 そもそも、意識調査にはなじむテーマとなじまないテーマがあることを知っておかないからこんなおかしなことになる。

(2009/9/7)

テーマ:選挙 - ジャンル:政治・経済

  1. 2009/09/07(月) 21:59:04|
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仕事第一主義の落とし穴

 海外へ企業調査に行くと、オフィスでは社員の集中度が高く、効率的に働いているのに感心する。労働生産性の国際比較でも、欧米諸国は日本より高い。ところが意識調査では、日本人には「仕事第一」が多いのに対し、欧米人は「家庭第一」が圧倒的多数派だ。欧米人が「仕事第一」でないことは、彼らの言動などからもはっきり読み取れる。にもかかわらず「仕事第一」の日本人より生産性が高いのだから、日本人としては立つ瀬がない。
 日本人の「仕事第一」が本心から出たものかどうか疑わしいが、とりあえず額面どおりに受け取ることにしよう。
 実際、仕事が好きで仕事を生き甲斐にしている人で、成果があがらない人は少なくない。彼らをみていて、もしかすると仕事が好きで「仕事第一」だから成果があがらないのではないか、と思う。
 白状すると、実は私もそうだ。私は本の原稿を書いているときがいちばん充実感を覚える。苦しみながらも、反面では楽しんでいる。逆に、書き終えて次に書く本がないとき、何ともいえない空疎感に襲われる。そのため、振り返ってみると執筆の途中でしばしば中断したり、原稿をいじくり回したりする癖があるようだ。あれも書きたい、これも入れたい、という思いを抑えきれず、結果として内容を落としてしまう。逆に、時間に追われていて一気に書いた原稿は、自分で言うのも何だがすっきりしたものになっているようである。
 大相撲の世界では、四つに組んで自分から攻めず、長い相撲を取る力士を「あいつは相撲が好きだ」というが、それと通じるところがある。
 仕事が好きな日本人は、サッサと片づけると仕事が無くなるので、ダラダラと非効率な働き方をしているのかもしれない。仕事の生産性を上げるため、日本人はこの際、「仕事第一主義」を捨ててみたらどうだろう。でも、その前に家庭をもっと楽しく、居心地のよい場所にしなければならないか。
 
(2009/8/31)
  1. 2009/08/31(月) 03:45:36|
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厳罰とポピュリズム

 飲酒運転をした地方公務員に対する懲戒免職の処分が「過酷すぎる」という理由で、取り消しを命じる判決が相次いでいる。
 飲酒運転の取り締まり強化と厳罰化には私も賛成である。しかし「公務員なら理由の如何を問わずただちに懲戒免職」というのは、やはり「厳しすぎる」と思う。
 第一に、懲戒免職だとクビになるだけでなく退職金も取り上げられるが、退職金は給料の後払い的な性質を持つ。したがって、よほど悪質な罪を犯さない限り、それを受け取る権利を奪うことはできないはずだ。その「悪質」さを判断する基準は、社会通念や公平性である。自営業や自由業なら、かりに飲酒運転で検挙されても当然ながら職を奪われることはないし、企業でも懲戒免職といった重い処分を科すところは少ない。だとしたら、公務員だけを懲戒免職にするのはバランスを失するといわざるをえない。
 第二に、当たり前のことだが、公務員だけを厳しく処分しても問題の解決にはならない。公務員への厳罰が、社会全体に波及するとも思えない。
 そして、私が反対する一番の理由は、厳罰化の背景にポピュリズムの臭いを強く感じるからである。「公務員は市民の模範になるべきであり、それが飲酒運転をするとは言語道断で厳罰は当然だ」という主張は、確かに一般受けする。しかし、「財政が厳しいときに公務員の給与カットは当然」というのと同じで、冷静に考えてみれば論理に無理がある。警察官や交通安全課の職員ならともかく、職員一般に「模範たるべき・・・」というのはどうか。受け取り方によっては、「公務員のほうが人格的に高潔である」という官尊民卑の思想だといえなくもない。
 いずれにしても、安易なポピュリズムに与することなく、本当の正義を守るのが裁判所の役目であり、その点で一連の判決を支持したい。
 いうまでもなく、飲酒運転の撲滅は国民全体で取り組むべき課題なのである。

(2009/7/19)
  1. 2009/07/19(日) 11:56:05|
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プロフィール

太田 肇

Author:太田 肇
<ホームページ>
http://www.eonet.ne.jp/~ohtahajime/

<職業>
「組織学者」としておきます。

<主な研究分野>
組織論
とりわけ、「個人を生かす組織・社会」について

<肩書き>
同志社大学 政策学部・大学院総合政策科学研究科教授
経済学博士

<著書>
◆最新刊 『最強のモチベーション術 人は何を考え、どう動くのか?』(日本実業出版社)

『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)
『社員の潜在能力を引き出す経営』(中央経済社)
『がんばると迷惑な人』(新潮新書)
『子どもが伸びる ほめる子育て』(ちくま新書)
『組織を強くする人材活用戦略』(日経文庫)
『表彰制度』(日本表彰研究所との共著 東洋経済新報社)
『社員が「よく辞める」会社は成長する!』(PHPビジネス新書)
『公務員革命』(ちくま新書)
『承認とモチベーション -実証されたその効果-』(同文舘)
『「不良」社員が会社を伸ばす』(東洋経済新報社)
『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)
『認め上手  -人を動かす53の知恵-』(東洋経済新報社)
『認められる力』(朝日新書)
『日本的人事管理論』(中央経済社)
『承認欲求』(東洋経済新報社)
『お金より名誉 のモチベーション論』(東洋経済新報社)
『「外向きサラリーマン」のすすめ』(朝日新聞社)
『認められたい!』(日本経済新聞社)
『「個力」を活かせる組織』日本経済新聞社)
『選別主義を超えて』(中公新書)
『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書)
『個人尊重の組織論』(中公新書)
『ホンネで動かす組織論』(ちくま新書)
『囲い込み症候群』(ちくま新書)
『仕事人(しごとじん)の時代』(新潮社)
『仕事人と組織』(有斐閣)
『日本企業と個人』(白桃書房)
『プロフェッショナルと組織』(同文舘)

<生活信条>
できるだけ人に迷惑をかけないこと。恩を忘れないこと。

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